松應寺

住所:岡崎市松本町42

 天文18年(1549)、家康公の父で岡崎城主・松平広忠は城中で家臣に殺され、能見ヶ原の月光庵(現・松應寺)に埋葬された。当時、人質として尾張にいた竹千代(家康公)は月光庵に参り、松の木を一株植えて松平一族の繁栄を祈願。永禄3年(1560)の桶狭間の戦い後、岡崎城主となった家康公は、父の菩提を弔うために月光庵の地に寺院を建立。家康公は、父の墓上の手植えの松が念願通り緑深く成長するのを見て「我が祈念に應ずる松なり」として「松應寺」と名付けた。


本堂



<梵鐘>

寛永12(1635)、家康公の9男、尾張徳川家の始祖・義直公が鋳造。

戦時中も文化的価値の高さから武器供出を免れ、空襲でも鐘堂は焼失したが破砕されなかった貴重な鐘。


<松平広忠公御廟所> 
 
本堂北側にあり、墓石の代わりに墓上に松が植えられているのが特徴的。家康公のお手植えから440年余り根を張ったが、残念ながら平成3年に枯死。現在の松は平成22年に植樹したもの。


聖徳太子をお祀りする太子堂。

文化2年(1805)の建立。


<木造アーケードと松應寺横丁>
岡崎空襲で焼け出された人たちが、焼け野原となった境内に闇市を出し、その後、家屋や店を建てて「お寺の中にまち」が出来た。木造アーケードは、昭和28年頃に、当時の商店街が建てたもの。2011年から、寺と地元で町おこしを始め、松應寺横丁と名付けた参道では、新たに様々な店が並び出し、レトロな雰囲気も楽しめる。

 右の写真の一番奥に見えるのが松應寺の本堂



   
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