西尾城(にしおじょう)

住所:愛知県西尾市錦城町231-1 西尾市歴史公園内


 西尾城は承久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任ぜられた足利義氏が築城した西条城が始まりと伝わる。戦国時代末期には酒井正親・重忠、田中吉政と城主が変わり、城域も次第に拡大した。関ケ原の戦いの後、慶長6年(1601)には本田康俊が西尾2万石の城主として入りその後も譜代大名らが藩主を務めた。寛永15年(1638)、太田資宗が西尾城の大改修を計画し、西尾城の特徴の一つである堀と土塁が城下町を囲む「総構え」と呼ばれる体裁を企て、井伊直之が受け継いで明暦3年(1657)に完成した。

鍮石門(ちゅうじゃくもん)

 間口約9m、奥行き約5m、高さ約7mの堂々たる楼門に再建された鍮石門は、城主の居所である二之丸御殿に至る表門だった。その名前から、扉に真鍮が飾られていたとも言われている。


本丸入口の土塁
 



本丸下の堀
鍮石門横の土塁

本丸丑寅櫓 (ほんまるうしとらやぐら)

 西尾城の特色は、天守が本丸ではなく二の丸にあり、城下に士農工商が混在していたこと、「総構え」といって城下町の周囲を堀と土塁で囲んだこと。

城郭図や平成6年の発掘調査によって平成8年に再建された本丸丑寅櫓は、本丸の丑寅(北東)の隅に建てられた櫓で、城内の隅櫓のうち一番高い建物だった。三層、高さ約10メートルの木造本瓦葺、壁面上部は漆喰塗籠、腰部は下見板張りとなっている。


天守台

 明治時代にほとんどの建物が壊された中で、天守も解体。平成時代の復元工事で江戸時代の「二之丸居所之図」と照らし合わせ天守の位置を推定。

 20143月に天守台の復元が完成した。復元された天守台は、幡豆石(はずいし)が使用されており、石垣の高さは約6m

 

二之丸丑寅櫓(にのまるうしとらやぐら)

 天守があったとされる二之丸の北東隅(丑寅の方角)、鍮石門の北に位置する櫓。外観は二重櫓であるが、内部は三階の望楼型。屋根は入母屋造りで本瓦葺きになっている。櫓の大きさは東西5.4m、南北7.2m、高さ8.3m

 丑寅櫓から天守台につづく土塀は約52m、高さは約2m。木造で控え柱のある構造で、2ヶ所の折れを持つ「屏風折れ」となっており、折れに対応して土手も張り出している。これは全国でも珍しい特徴。 文献等を参考に令和27月に復元したもの。


   
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