長篠城(ながしのじょうあと)

住所:愛知県新城市長篠字市場22-1


 長篠城は永正5(1508)田峯菅沼氏の一族、菅沼元成によって築かれ、今川氏の配下に、その後松平元康(家康)、武田氏、再び家康側と奪還が繰り返され、最後の戦いの舞台となったのが天正三年(1575)の「長篠の戦い」だった。

 武田信玄の死によって家督を相続した武田勝頼はここ長篠城を奪うべく15,000人の大軍で包囲し、一方長篠城を守る徳川方の城主奥平信昌の兵は僅か500人。圧倒的な兵力の差で窮地に陥った。そこで貞昌は家康に援軍を求めるため、足軽の鳥居強右衛門を岡崎城へ走らせた。

鳥居強右衛門は城横の豊川を泳いで渡り武田軍の包囲網を突破し、援軍の要請に成功。引き返した鳥居強右衛門は長篠城に入る直前に武田軍に捕まり、城内に向かって「援軍は来ないと言えば命は助けてやる」と言われたが「援軍は近くまで来ている」と叫び、磔で殺された。 しかし彼の情報により長篠城の士気は高まり、窮地を脱することに繋がった

 そして鳥居強右衛門の働きで駆け付けた織田・徳川の38,000人の援軍が長篠城から約2kmの設楽原に着陣し、馬防柵を築き武田軍と対峙した。武田軍は騎馬隊によって次々に攻撃を仕掛けたが、馬防柵や鉄炮隊の迎撃によって甚大な被害を受けて敗退した。

 長篠の戦いによって長篠城は激しく損壊したため奥平信昌は1576(天正4)、新たに新城城を築き、長篠城は廃城となった。


本丸跡


 

内堀と土塁が城の東側を守り、後方は合流する豊川と宇連川が堀として巧みに利用された堅固な自然の要害となっていた。


奥に見える鳶ヶ巣山(とびがすやま)に武田軍が陣地を置いた



 鳥居強右衛門が
「援軍が来る」と大声で叫んだとされる場所。(長篠城から50m)

 

 鳥居強右衛門が磔にされた場所に設置された碑「鳥居強右衛門磔死の址」

(豊川を挟んで長篠城の対岸)

 


   
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