設楽原決戦場(しだらがはらけっせんじょう)

住所:愛知県新城市大宮清水1−9


 武田軍に包囲された長篠城の奥平信昌からの要請で駆け付けた38,000人の織田・徳川連合軍は長篠城から約2kmの設楽原を流れる連吾川沿いに馬防柵を築き、武田軍の攻撃に備えた。一方、武田軍も設楽原へ陣を移し、連吾川の東側台地に陣地をおいた。

 武田軍の騎馬隊は馬防柵により苦戦を強いられた。柵の手前の連吾川の両側には水田が続いており、それらを越えて柵に近づくと鉄炮が放たれる。武田軍が突撃を繰り返すたびに死傷者の数が増え、武田軍の敗色は明らかとなり、勝頼はわずかな兵に守られて退却した。武田軍10,000人、連合軍5,000人が、たった10時間ほどの戦いで命を落としたと伝わる。


 

<馬防柵>

当時天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊の侵攻を防ぎ、内側から鉄砲で狙い撃ちするために作られたものであり、その長さは2Km余に及んでいた。


<鉄炮構え>

織田・徳川連合軍が設楽原決戦に備えて構築した鉄炮構えは乾堀、馬防柵、銃眼付の土塁の三段構えであった。





   
このページのトップに戻る