丸子宿(第20番)  ~ 府中宿(第19番) 


'19.12.10   10:50

<本日のスタート地点>

   ・・静岡県静岡市駿河区丸子6丁目



①松並木

 ・・静岡市駿河区丸子4丁目付近

東海道名残の松が数本残っている。



②子授地蔵大菩薩(佐渡地蔵堂)

・・静岡県静岡市駿河区丸子1丁目10-1


建立時期は不明であるが1800年頃に描かれた東海道分間延絵図に地蔵堂が記載されている。またお堂の中には、今も天保13年(1842)と記された「三界萬霊等位」の位牌が祀られている。



③安倍川橋・・静岡県静岡市駿河区手越

安倍川には現在は安倍川橋が架けられているが、江戸時代には橋や渡船が無く、大井川等と同じように川越人足による徒歩渡し。左右両岸の弥勒町と手越村には川の水量で川越賃銭の決定や徴収などの業務を行なう川会所が置かれていた。往時の様子は歌川広重が描いた「東海道五十三次之内府中 安部川」に見ることができる。

 


④安倍川義夫の碑
    ・・静岡県静岡市葵区弥勒5

この碑は正直な川越人足を称える碑。
元文
3年(1738)初秋の頃、紀州の漁師が仲間と貯めた大金を持って安倍川を自力で川を渡る際にうっかり財布を落としてしまい、たまたま近くにいた川越人夫の一人が財布を旅人に届けた。
旅人は喜び、礼金を払おうとしたが、どうしても受け取ってもらえず旅人は駿府町奉行所に届けた。町奉行がこの人夫を呼び出し礼金を渡そうとしたが、それでも受け取らないため、町奉行は礼金を旅人に返し、奉行所から川越人足にほうびを渡したとのこと。



⑤東海道本通と新通の分岐点
      
・・静岡県静岡市葵区弥勒5

徳川家康は駿府城に入ると東海道の道筋を変更し、駿府城に近づくと背景に富士山が見えるルートに変更した。

写真左は元の東海道で「本通(ほんとおり)」、右は新たに作った「新通(しんとおり)


⑥せきべや(元祖安倍川もち)

     ・・静岡県静岡市葵区弥勒5

江戸時代の駿河三大名物の一つ、安倍川餅の元祖「せきべや」

*三大名物:「安倍川餅」「兎餅」「追分羊かん」

 


⑦由井正雪公之墓趾・・静岡県静岡市葵区弥勒2丁目6

由井正雪は、三代将軍、家光の逝去に伴う混乱に乗じて、幕府転覆を図ろうとしたという容疑で、慶安4(651726日、駿府の府中宿梅屋町年寄梅屋太郎右衛門方に宿泊していたところを、駿府町奉行落合小平治の部下に囲まれ、同志と共に自刃した。この事件は慶安の変と呼ばれる。 正雪は安倍川畔でさらし首になり首塚は静岡市葵区沓谷の菩提樹院にある。



  ⑧安倍川川会所跡
  ・・静岡県静岡市葵区弥勒1丁目4
江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがあり、旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。
この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督するところが川会所であり、安倍川も両岸に川会所 があった。毎日川役人が勤務して川越人夫への指示や、川越え賃金の取り扱いを行っていた他、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当っていた。
 この川会所は間口6間、奥行き4間半であり、5人程の役人が務めていた。
ちなみに、安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人
64文、へそ上は55文、へそまでは48八文、へそ下は46文、股までは28文、股下は18文、ひざ下は16文であったと伝わる。


⑨札之辻(ふだのつじ)跡
  
・・静岡県静岡市葵区呉服町1丁目


駿府町奉行所により四ツ辻(四つ角)の中に幕府の政策や法令、禁制等をかかげた高札場が設けられたことから「札ノ辻」のと呼ばれた。



⑩駿府城跡・・静岡県静岡市葵区駿府城公園1−1

駿河国を領国の一つとした家康は、天正13年(1585)から居城として駿府城の築城を始め、天正17年(1589)に完成させた(現在の二ノ丸以内の部分)。しかし家康は翌年関白豊臣秀吉の命によって関東に国替えされ、豊臣系の家臣中村一氏(かずうじ)が城主となった。豊臣秀吉亡き後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いた。

慶長10年(1605)将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」の拠点の地と定めて再び戻ってきた。天正期の駿府城を拡張(三ノ丸)修築し、駿府の町割りや安倍川の治水事業に取りかかり、現在の静岡市の市街地の原型が造られた。

そして家康自らは、晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し、駿府は江戸を凌しのぐ政治・経済・文化の中心としてその黄金時代を迎えた。

駿府城大手門跡

駿府城内へ入る正面入口。
三ノ丸堀を土橋で渡って右に直角に曲がり、渡櫓門
(現存せず)から城内に入る構造になっていた。

       
  ↑手前の石垣は江戸時代に築かれたもの。奥の色の異なる部分は近年復元されたもの。 ↑東御門

二ノ丸の東に位置し、主に重臣たちの出入口として利用された。

天守台発掘調査中

手前の石垣は徳川家康が築いたものであり「打ち込み接(はぎ)」、奥に見えるのは豊臣秀吉が築いた石垣であり「野面(のずら)積み」の方式である。

駿府城跡(手前)のはるか向こうに富士山が眺望できる

(写真は静岡県庁21階から撮影)



<府中宿>

江戸日本橋から19番目の宿場で、街は駿府城の城下町でもあった。

規模は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒で、大津宿に次いで2番目に人口が多くとても賑わっていた。



⑪西郷・山岡会見之史跡

・・静岡県静岡市葵区御幸町

江戸攻撃へ向かう東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)の会見が行われた伝馬町の松崎屋源兵衛の屋敷跡。

慶応4年(1868)年2月、徳川慶喜は新政府の東征軍が江戸に進軍してくることを知ると、後事を勝海舟に託し、自らは江戸城を出て上野寛永寺で謹慎生活に入った勝海舟は江戸城と徳川家の処遇問題の交渉のため、駿府まで来た東征軍の西郷のもとに山岡鉄舟を派遣した。山岡と面会した西郷は江戸城攻撃を中止する条件として、徳川慶喜の身柄を備前藩に預け、江戸城を明け渡し、軍艦・武器をすべて引き渡すことなど、全7カ条を山岡に提示。山岡は慶喜を備前藩に預けるという一条だけは絶対に受けられないと拒否した。山岡はひるがえって、もし西郷が逆の立場であり、島津公が他家預かりとされたら耐えられるかと問うたのである。

西郷は山岡の主張に理解を示した。西郷は幕臣として単身敵地に乗り込んできた山岡の覚悟、そして泰然としつつも真摯な人間性に感銘を受けたのである。幕府側との交渉は、313日~14日の西郷・勝の会談で最終的に江戸城開城が決まるが、このときの山岡との会見が道筋をつける重要な一歩となったのである。



⑫府中宿上伝馬本陣・脇本陣跡

      ・・静岡県静岡市葵区伝馬町


府中宿には上伝馬町と下伝馬町にそれぞいれ本陣と脇本陣があった。



府中宿内の現在の東海道

    ・・静岡県静岡市葵区伝馬町9付近



現在の東海道・・静岡県静岡市葵区宮前町110付近

現在の1号線。奥には富士山が奇麗に見える。



⑬長沼一里塚址・・静岡県静岡市葵区長沼

江戸から44里目の一里塚

 


⑭「兎餅」跡地・・静岡県静岡市葵区古庄1丁目1

駿河三大名物の一つ「兎餅」

兎餅300年ほど前からこの地で作られ、前島家、吉田家、扇屋と伝わり、1964年に一旦途絶えたが、現在は松木屋が引き継いで別の場所で製造されている。

 


<本日のゴール>

  ・・静岡県静岡市清水区草薙1丁目

       '19.12.10  16:58


   
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