<本日のスタート地点>
・・静岡県静岡市清水区草薙1丁目
①草薙(くさなぎ)一里塚
・・静岡県静岡市清水区草薙一里山4
江戸から43里目の一里塚
②久能寺観音道道標・・静岡県静岡市清水区平川地
安永7年(1778)に建てられた道標で、この地から有度山麓を通って久能寺へ至る道の道標。久能寺は、飛鳥時代・藤原氏出身の久能忠仁が現在の久能山東照宮付近に建立したお堂が始まりとされる。永禄13年(1570)に武田信玄によって現在地に移された。 江戸時代後期に入ると寺は衰退し、明治に入ると住職がいない寺となり荒廃し、その後山岡鉄舟が復興し、寺号を『鉄舟寺』と改めた。
③姥ヶ池・弁財天・・静岡県静岡市清水区追分4
以下の伝説が伝わる
「今から千二百年ほど昔、延歴年中、この池のあたりに金谷長者というお金持ちが住んでいた。 子どもがないので神仏にお祈りして男の子を授かった。ある年にひどい咳が流行してこの子も患った。乳母はこの池辺りの弁財天に祈願して小児のかわりに入水して死んだ。これより小児の病はよくなった。長者は姥の子育てに感謝して池のふちに社を建て霊を祭ると池の底から泡が出始めた。この池のほとりに立って「姥かいな」と呼べば、それに答えるかのように泡が出ては淋しく消えていくようになった。それからは姥ヶ池と呼ばれ、ひどい咳に病む子ども達がこの社にお祈りするとたちまち治ると言い伝えられた。」
④都田吉兵衛供養塔 ・・静岡県静岡市清水区追分
文久元年(1861)、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、都田吉兵衛をここで討った。 この地の人が、吉兵衛の菩提を弔う人が少ないことに哀れみ、建てたとされるのがこの供養塔である。
江戸時代の駿河三大名物の一つ、「追分羊かん」。
元禄8年(1695)創業の老舗である。
*三大名物:「安倍川餅」「兎餅」「追分羊かん」
<江尻宿>
江戸から18番目の宿場町。
江尻とは巴川の尻(下流)を指し、戦国時代今川氏の支配下の頃にはすでに三日市場として栄えており、永禄12年(1569)には武田信玄が江尻城を築いた。
宿場の規模は人口6498人、家数1340軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠50軒。 最寄りの清水港は三保の半島に包まれた天然の良港で、物資輸送や軍事の要衝であり、徳川幕府の軍港として清水船手奉行と軍艦が置かれていた。
江尻宿内の東海道
・・静岡県静岡市清水区
⑥江尻宿寺尾本陣跡 ・・静岡県静岡市清水区江尻町4
江尻宿には2軒の本陣があり、寺尾家、橋本家が務めた。
⑦江浄寺・・静岡市清水区江尻東3-6-6
徳川家康の長男として生まれながら、謀反の疑いをかけられ自害させられた武将・岡崎三郎信康の遺髪が祀られている。当時から参勤交代の大名や朝鮮通信使がお参りに立ち寄ったとされるお寺には供養塔が残されている。また朝鮮通信使の一行が宿泊した際の記録も残されている。
⑧江尻一里塚跡 ・・静岡県静岡市清水区辻2丁目5
江戸から42里目の江尻一里塚はこの辺りにあったと伝わる。
⑨ほそい(細井)の松原・・静岡県静岡市清水区辻3丁目
慶長9年(1604)二代将軍秀忠は街道の両側に松の木を植えさせ、同17年(1612)完成したと伝わる。元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると、松原は全長199間2尺(約360m)、松の本数206本とある。ほそいの松原は太平洋戦争の時、松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その跡もない。現在のこの地の松は平成4年に植樹されたもの。
⑩無縁さんの碑 ・・静岡県静岡市清水区辻3丁目
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年、松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に祈念碑を建て霊を慰めた。
⑪坐漁荘(ざぎょそう)
・・静岡県静岡市清水区興津清見寺町115
明治の元老であった公爵 西園寺公望が1920年(大正9年)に建てた別邸。
⑫清見寺・・静岡市清水区興津清見寺町418-1
約1300年前の白鳳年間、天武天皇朝の頃、東北の蝦夷に備えて清見関という関所が設けられ、その傍らに関所の鎮護として仏堂が建立された。この仏堂が清見寺の起源と伝わる。
鎌倉、室町時代には足利氏、今川氏に崇敬され、徳川時代には二百余石の朱印地を有し、徳川一門の帰依を受けていた。
←梵鐘は正和3年(1314)に鋳造されたたもので、豊臣秀吉公伊豆韮山城攻伐の際に祭陣に供されたもの。
←徳川家康公お手植えの梅「臥龍梅」
清見寺は朝鮮通信使の迎賓館として使われ、度々宿泊場所、休憩場所として使われた。その際、清見寺住職と通信使の文化交流が行われ、通信使による扁額や多くの詩書が、清見寺に残されている。
釈迦如来の弟子で仏典の編集護持に功績のあった方々を彫った五百羅漢石像で江戸時代中期の作。
島崎藤村の「桜の実の熟する時」の最後の場面に出てくる。
<興津宿>
江戸から17番目の宿場町。難所の薩堙(さった)峠を越えてきた旅人の休憩所として、越えて行く旅人の旅装を整える宿として賑わいを見せた。町並みは東西に4.2kmあった。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐する、交通の要衝であった。明治22年、皇太子(大正天皇)が清見寺に滞在し海水浴を楽しんだことが全国的に有名になり、それがきっかけで、伊藤博文、松方正義、西園寺公望など多くの要人がこの地に別荘を建てた。 宿場の規模は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人口1668人
⑬興津宿本陣跡
・・東本陣:静岡県静岡市清水区興津本町210
西本陣:静岡県静岡市清水区興津本町170
興津宿には本陣が2軒あり、西本陣は手塚家、東本陣は市川家が務めた。
⑭興津一里塚址 ・・静岡県静岡市清水区興津中町
江戸から41里目の一里塚
⑮身延道(みのぶみち)入口 ・・静岡県静岡市清水区興津中町
駿河と甲州を結ぶ街道である駿州往還の別名。身延山久遠寺への参拝客が多く往来することから身延道と呼ばれた。
甲州側起点の甲府相生から甲斐の国を南下し、万沢(南部町)を過ぎると駿河に入る。
⑯興津川 ・・静岡県静岡市清水区興津東町
徳川家康は江戸を防衛するという政治的意図で東海道の多くの川を架橋禁止とし、富士川、天竜川などは舟渡しとし、安倍川、大井川などの他、ここ興津川も人足による徒歩渡しとした。
⑰薩埵(さった)峠
薩埵峠は興津宿と由比宿の間、駿河湾に突き出した山の裾にある峠で、昔は箱根峠などに並ぶ東海道の難所と言われていた。峠からは駿河湾の向こうに富士山と愛鷹山が望め、この絶景は歌川広重の東海道五十三次「由井」にも描かれている。
⑱薩埵山合戦場 古来、ここでは二度の大合戦があった。まず観応2年(1351)室町幕府を開いた足利尊氏と鎌倉に本拠を構えた弟の直義が不仲になり、ここ薩埵峠から峯つづきの桜野にかけて山岳戦を展開し、やがて直義軍が敗退した。 二度めは永禄11年(1568)から翌年にかけて、駿河に侵攻した武田信玄 を迎え撃つため今川氏真 が清見寺に本陣を置き薩埵峠に先鋒を構えたが敗退した。 そこで小田原の北条氏が今川に加勢して出陣し、今度は武田が敗れて一旦甲州へ引き上げたが、永禄12年12月に三たび侵攻し蒲原城 を攻略した。
⑲西倉沢一里塚跡 ・・静岡県静岡市清水区由比西倉澤
江戸から40里目の一里塚で、薩埵峠の東側の登り口にあった。
⑳間の宿(西倉沢) ・・静岡県静岡市清水区由比西倉澤
興津宿と由比宿の間(薩埵峠の東側)に西倉沢間の宿があった。 10軒ほどの茶屋があり、旅人が疲れを癒した。 本陣、脇本陣もあった。
<本日のゴール(由比漁港)>
・・静岡県静岡市清水区由比今宿字浜1068
本日のウォークはここで終了
'19.12.11 16:30