東海道五十三次
ウォーキング記録
由比宿(第16番) ~ 吉原宿(第14番)
2019.2.4 11:10
①由比漁港・・・静岡市清水区由比町屋原
今回はここからスタート
由比宿近辺の町並み
・・・静岡市清水区由比町屋原120
②由比宿西の入口・・・静岡市清水区由比
ここ由比川は昔は仮板橋で渡っていた。その後明治八年に木橋が架けられ玉鉾橋と命名し、無賃で渡したことで有名。
昭和になってコンクリートの橋が架けられて玉鉾橋は取り壊された。
写真左の松の木のところで東海道が途切れ、現在は右の橋を渡るルートになっている。
<由比宿>
江戸日本橋から16番目の宿場。駿河湾に注ぐ由比川最下流の左岸に位置し、西に難所の薩埵峠が控える。
天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると由比宿の町並は東西五町半、人口は707人、戸数は160軒であり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒であった。
このように小規模だったため義務であった百人・百匹の常備の人馬をおくことができず、近隣の村を加宿として応援してもらっていた。
③由比宿本陣跡
・・・静岡市清水区由比297−1
由比宿の本陣職、問屋職を勤めた岩辺家は鎌倉時代より続く由比氏の系統で江戸時代は代々「岩辺郷右衛門」を名乗った。
この本陣は石垣と木塀で囲まれた遮蔽形の本陣で、本陣館、土蔵、離れ座敷があった。その多くは失われたが1300坪の広大な敷地、馬の水飲み場の石垣等が当時の姿を留めている。
④正雪紺屋・・・静岡市清水区由比68
この紺屋(染物屋)は江戸初期より続くと言われ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。
慶安事件で有名な由比正雪はこの紺屋の生まれと言われていることから正雪紺屋の屋号がつけられている。
⑤由比宿東桝形跡
・・・静岡市清水区由比140−1
由比宿の江戸側の出入口の東木戸跡。桝形の道路が残っている。
⑥由比一里塚跡
・・静岡市清水区由比町由比166
江戸日本橋から39里目、京都三条大橋から85里目の一里塚
<蒲原宿>
江戸日本橋から15番目,京都三条大橋から39番目の宿場。
蒲原宿は元々海よりの地にあったが元禄12年(1699)の大津波によって壊滅し、山側の現在地に移転した。
東西14町33間半、人口2480人、家数509軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠42軒の規模であり、名物は海魚、塩、魚油、藍など。
⑦西木戸・茄子屋の辻 ・・静岡市清水区蒲原3丁目11
蒲原宿の西の入り口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていた。この西木戸近くに青木の茶屋(茄子屋)があり、「茄子屋の辻」で乱闘がおこった。承応2年(1653年)、高松藩の槍の名人、大久保甚太夫らが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会い、槍の穂先が相手の槍と触れたことで口論になり茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒した。しかし最期に追っ手に見つかり殺されてしまった。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り供養した。甚太夫の槍の穂先は現在寺宝として保存されている。
⑧志田家住宅主屋
・・静岡市清水区蒲原3-19-28
志田家はヤマロクという屋号で味噌や醤油の醸造を営む商家だった。
安政元年(1854)の大地震の直後に再建された東側二階建て部分は「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型。蔀戸(しとみど)と呼ばれる日光や風雨をさえぎる戸を備えている。
⑨蒲原宿本陣跡
・・静岡市清水区蒲原3丁目17−27
平岡家が務めた蒲原宿本陣の跡。他に東本陣(多芸家)もあったが江戸中期に途絶え西本陣だけが幕末まで残った。建物は残っていないが大名が駕籠を置いたとされる御駕籠石が残っている。
⑩旅籠「和泉屋」
・・静岡市清水区蒲原3丁目25−4
江戸時代「和泉屋」という上旅籠だった。天保年間の建物で安政の大地震でも倒壊を免れた。
今も残る二階の櫛形の手すりや看板掛け、柱から突き出た腕木などに江戸時代の上旅籠の面影を見ることができる。
⑪「蒲原夜之雪」記念碑 ・・静岡市清水区蒲原3丁目2−23
「蒲原夜之雪」の絵は、歌川広重が天保三年(1832)四月、幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京へ上った折、この地で描いたもので、東海道五十三次シリーズの中でも最高傑作といわれている。
⑫なまこ壁と塗り家造りの家
・・静岡市清水区 蒲原2丁目8
当家は佐野屋という商家だった。壁は塗り壁で町家に多く見られる造りで「塗り家造り」という。
塗り家造りは土蔵造りに比べて壁の厚みは薄いが防火効果が大きく、昔から贅沢普請と言われていた。元々は城郭等に用いられていた技術であり、一般には江戸時代末期以降に広まったと考えられている。
⑬東木戸・常夜燈
・・静岡市清水区蒲原1丁目14−18
蒲原宿入口には木戸が設置されており、東木戸は僅かだが桝形を残す。「宿内安全」と刻まれた文政13年(1831)の常夜燈が残っている。
⑭蒲原一里塚跡
・・静岡市清水区蒲原 1丁目8-26
江戸日本橋から38里、京都三条大橋から86里の一里塚
富士山を眺望
・・静岡市清水区蒲原
東名高速道路を渡る歩道橋から富士山が綺麗に見られる
富士市中之郷近辺
富士山を見ながらのウォーキング
⑮岩淵一里塚
・・富士川市 岩淵15-13
江戸日本橋から37里、京都三条大橋から87里の一里塚。
珍しく両塚が残っており、間から富士山が望める。
⑯富士川橋から富士山を望む
・・富士市岩淵
富士川は全長128km、流域面積3990平方kmの一級河川。日本三大急流の一つと言われている。
かつては甲府盆地と東海地方を結ぶ舟運に利用され、江戸時代には米・塩・海産物などが運ばれた。下流域には伏流水を利用して製紙業が発達している。
⑰水神社
・・富士市松岡1816
富士川の神として崇められてきた水神を祀る水神社。富士川を渡る渡船場はこの付近にあり、周辺は舟場と呼ばれていた。
⑱雁堤(かりがねづつみ) ・・富士市松岡
江戸初期まで加島平野一帯は度重なる洪水で田畑は損害を被り、人々を苦しめてきた。戦国の世が治まり各地で新田開発が行われ、この地でも富士川の洪水を制する大堤防の築造が求められた。この難工事に古郡氏が三代にわたり取り組み、苦難の末に雁堤を完成させた。
雁堤は岩本山の裾から松岡水神社に至る2.7kmに及ぶ大堤防であり、その形が雁(かり)が連なって空を飛ぶ姿に似ていることから名付けられた。
⑲護所神社 ・・富士市松岡
雁堤の築造中、富士川の洪水でしばしば決壊の被害を被ったため人々は千人目の旅人を人柱にすることを決めた。そして千人目に当った旅僧はこれを快諾して人柱となった。その徳を慕って護所神社としてその霊を祭っている。
⑳本日のゴール ・・・富士市本市場町
旧東海道が中央分離帯で遮られているここで本日は終了。(吉原宿はもうすぐ)
夕暮れの富士山が美しい。
'19.2.4 17:05
このページのトップに戻る