東海道五十三次
ウォーキング記録
吉原宿(第14番) ~ 沼津宿(第12番)
2019.2.5 8:55
本日のスタート地点
・・・富士市本市場町
旧東海道が中央分離帯で遮られているが、2本の木の間を東海道が通っていた。
・・富士市永田町1丁目
<吉原宿>
江戸日本橋から14番目、京都三条大橋から40番目の宿場。「吉原宿」は元々は現在のJR吉原駅付近にあったが、寛永16年(1639)に発生した津波により甚大な被害を受け、内陸部(現・富士市依田原付近)に移転、延宝8年(1680)8月に起きた津波により再度被害を受け、さらに内陸部である現在の吉原本町に移った。
宿場の町並みは東西12町10間、人口2832人、家数653軒、本陣2、脇本陣3、旅籠が60軒の規模であった。
名物は鰻、白酒、葱雑炊など。
①吉原宿西木戸跡
・・富士市中央町3丁目8−11
吉原宿の西の入口である西木戸がここにあった
②木之元神社 ・・富士市中央町2丁目
宿場が元吉原から中吉原に移転した際に鈴川の木之元神社から分霊し、中吉原に祀ったのが始まり。更に新吉原への移転時に慈眼寺とともに鎮座、その後も鎮座地を転々としたが昭和30年代に現在地に落ち着いた。
③桝形 ・・富士市中央町1
吉原宿中心地に入る前に直角に曲がる桝形が見られる。
④鯛屋 ・・富士市吉原2丁目3
創業は天和2年(1682)と古く、以来330年以上もの間、当時の場所で営業している旅館。江戸時代から継続して現在まで営業している旅館は東海道の中でも唯一この鯛屋のみである。
世紀の大親分の清水次郎長、幕末の偉人の一人である山岡鉄舟の常宿としても知られている。
⑤吉原宿脇本陣跡 ・・富士市吉原2丁目
吉原宿の脇本陣3軒が隣接してこの地にあった。
現在はそれが分かるのは歩道に埋め込まれたレリーフのみである。
⑥平家越の碑 ・・富士市入山瀬4丁目-9
治承4年(1180)10月20日、富士川を挟んで源氏と平家の軍勢が対峙し、その夜半、源氏の軍勢が動くと近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音に驚いた平家軍は源氏の夜襲と思い込み、戦わずして西に逃げ去った。
源平の雌雄を決する富士川の合戦が行われたのはこのあたりと言われ、「平家越」と呼ばれている。
⑦左富士名残の松 ・・富士市依田橋町7
東海道を東から西に歩くと富士山は右手に見える場合が多いが、この辺りは松並木の間から左手に富士山が見えることから「左富士」と呼ばれ、街道の名勝となった。
歌川広重も「東海道五十三次内吉原」で左富士を描いた。僅かに残る1本の松が往時を偲ばせてくれる。
⑧依田橋村一里塚跡
・・富士市依田橋町
江戸日本橋から34里目、京都三条大橋から90里目の一里塚。
当初田嶋村付近に築かれていたが宿場の移転に伴い、寛永16年(1639)に津田村西側付近に移転、延宝8年(1680)に依田橋村の左富士神社の北側に移転された。
⑨香久山妙法寺 ・・富士市今井2丁目7−1
寛永4年(1627)創建と伝わる。平安時代作と伝わる毘沙門天像を本尊に祀る。
旧暦正月の3日間に毘沙門天大祭が行われ、多くのダルマ屋が出展し、だるま市を開催、日本三大だるま市の一つに数えられている。
古くから富士山信仰が行われ、毘沙門堂は富士登山修験の道場であった。
⑩沼田新田一里塚跡
・・富士市沼田新田
江戸日本橋から33里目、京都三条大橋から91里目の一里塚
⑪増田平四郎碑 ・・富士市沼田新田
天保7年(1836)の大飢饉や度重なる水害から村民を救済するため、原宿の増田平四郎が浮島沼の大干拓を計画した。平四郎は代官所に工事許可を願い出ること21回、勘定奉行に籠訴すること6度に及んでようやく事業の重要性と彼の努力が認められ、慶応元年(1865)に着工の運びと成り、明治2年(1869)に大排水路を完成させた。
⑫柏原本陣跡
・・富士市西柏原新田
間の宿柏原の本陣跡。
柏原は原宿と吉原宿の間の宿として茶屋が立ち並んでいた。
⑬六王子神社 ・・富士市柏原新田172
昔、沼川、和田川、潤井川が合流し、深い淵になっている所を「三股」と呼んでいた。この淵には龍が住んでいると信じられ、毎年少女を生贄として捧げるしきたりがあった。ある時関東の巫女7人が京都に向う途中、生贄のクジを引き、一番若い「おあじ」が引き当ててしまった。残った6人の仲間は国元へ引き返す途中、柏原あたりで悲しみのあまり世をはかなんで浮島沼へ身投げしてしまった。村人が6人のなきがらを弔ったのがこの六王子神社だと言われている。
<原宿>
江戸日本橋から13番目、京都三条大橋から41番目の宿場。
町並みは東西11町、人口1939人、家数398軒、本陣1軒、脇本陣0、旅籠25件の規模であった。
名物は鰻の蒲焼、白酒等であった。
⑭原宿一本松一里塚跡
・・沼津市一本松
江戸日本橋から32里目、京都三条大橋から92里目の一里塚。
慶長10年(1605)に高潮によって原宿が移転され、同時に一里塚もこの地に移転された。
⑮原宿問屋場跡
・・沼津市市原196−3
宿駅の業務を行った問屋場の跡。
原宿には西町、東町にそれぞれ問屋場があり、交代で務めたと考えられている。
⑯白隠禅師誕生地 ・・静岡県沼津市原128
白隠禅師は臨済宗中興の祖といわれる。19歳から32歳まで全国行脚の修行を経て原宿の松蔭寺の住職となり、全国で禅宗の教えを広めた。
「駿河には過ぎたるものが2つあり、富士のお山に原の白隠」と称えられた。
2019.2.5 16:40
JR片浜駅 ・・・沼津市今沢254-1
本日のゴール
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