東海道五十三次
ウォーキング記録
沼津宿(第12番) ~ 三島宿(第11番)
2019.3.4 12:50
JR片浜駅・・静岡県沼津市今沢
本日のスタート地点
②沼津藩領境傍示
・・静岡県沼津市西間門
安永6年(1777年)沼津藩主となった水野忠友によって、安永7年(1778)2月に建てられたもの。
沼津藩の西限を示すもので、下石田の東榜示と対応する。石製で、下半分は欠損している。「従是東」と刻まれているが、もとは「従是東沼津領」であったと考えられる。
<沼津宿>
江戸日本橋から12宿目、京三条大橋から42宿目の宿場。
沼津は安永6年(1777)水野忠友が三枚橋城を改修して沼津城を築城、以来水野氏沼津藩の城下町として繁栄した。江戸後期で人口5346人、家数1234軒、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒の規模であった。
名物は鰹節、鮎等。
現在の沼津宿の旧東海道
③沼津宿本陣跡
・・静岡県沼津市本町
沼津宿には高田本陣、清水本陣、間宮本陣の三軒が本陣職を勤めた。
現在は跡地を示す標石のみが残る。
④三枚橋城外堀跡
・・静岡県沼津市大手町
この石は石垣に使われていたもので、この位置は外堀の中心地であった。今もこの下には堀跡が埋もれている。
⑤三枚橋城外堀石垣
・・静岡県沼津市上土町
三枚橋城の遺構はほとんど残っていないが石垣はいくつか残っており、それを復元したもの。
⑥川廓(かわぐるわ)通り
・・静岡県沼津市大手町4丁目
川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって、東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外郭に接した狭い町であった。
「川廓」は「川曲輪」とも記し、狩野川に面した城郭に由来して名付けられたものと考えられる。
⑦沼津城本丸址 ・・静岡県沼津市大手町4丁目
戦国期に武田勝頼が三枚橋城を築き、沼津はその城下町として発展、江戸期になって東海道五十三次の一宿となった。慶長19年(1614)三枚橋城が廃城となり、安永6年(1777)水野忠友が沼津に入り、三枚橋城を改修して沼津城を築城した。慶応4年(1868)水野氏の菊間(千葉県)転封の後、城の建物は沼津兵学校の施設として使われ、明治4年(1871)の兵学校廃止に伴い払い下げられ、姿を消した。
⑧玉砥石 ・・静岡県沼津市平町18
玉砥石は、今から1200~1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石と伝えられている。
柱状の二つの大石にそれぞれ直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられている。
⑨日枝一里塚 ・・静岡県沼津市平町18
江戸日本橋から30里、京三条大橋から94里の一里塚
植えられてい榎は終戦まで威容を誇っていたがその後枯死してしまった。
⑩平作地蔵尊
・・静岡県沼津市平町20−12
「伊賀越」は、歌舞伎や人形浄瑠璃における三大仇討ちとして「忠臣蔵」「曾我」とともに、広く知られているものの一つである。
この物語は、寛永11年(1634年)備前岡山藩池田の家中、渡辺数馬が、姉婿である剣客荒木又右衛門の助けをかりて、弟の仇河合又五郎を伊賀上野城下鍵屋の辻で討った史実を脚色したものである。
この地蔵尊は子育て延命地蔵であるが、「伊賀越道中双六」の名場面として知られる沼津の段にちなみ、「平作地蔵」とも言われている。
⑪沼津藩領傍示杭 ・・静岡県沼津市大岡
沼津藩の東限を示すもので、沼津市西間門の八幡神社前に残る榜示杭に対応している。 碑の西側を除く3面に「従是西沼津領」と刻まれている。
⑫智方(ちかた)神社 ・・静岡県駿東郡清水町長沢60
ご祭神は後醍醐天皇の皇子護良親王。
護良親王は皇位略奪と足利尊氏暗殺計画の罪で鎌倉の足利直義に預けられ幽閉される。その後幕府の残党北条時行が鎌倉を奪還し、足利直義は後憂を考えて淵辺義博に護良親王を殺させ、鎌倉を脱出。
護良親王の首はその後、側女の南の方(藤原保藤の娘)が持ち出し、京都に届けようと追手に追われながらここ黄瀬川の川岸まで逃げてきた。しかし黄瀬川は嵐のため増水して渡れず、もはやこれまでと思った南の方は黄瀬川の川岸に親王の首を埋め、その目印に楠を植えた。その場所がここ智方神社だと伝わる。
境内にその楠が今も残っている。
⑬八幡神社 ・・静岡県駿東郡清水町八幡39
治承4年(1180)8月17日、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は10月には鎌倉に入り、関東・伊豆を平定。10月20日、平家の東征軍を富士川で迎え撃って敗走させ、翌日には黄瀬川八幡の地に本営を置きいて奥州平泉より駆けつけた弟の源義経と涙の対面を果たした。その時頼朝によって勧請されたのがこの八幡神社だといわれている。
祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后。
⑭伏見(宝池寺)一里塚
・・静岡県駿東郡清水町伏見
江戸日本橋から30里、京三条大橋から94里の一里塚
⑮常夜燈
・・静岡県駿東郡清水町新宿
弘化3年(1846)建立で、両側に秋葉大権現、富士浅間宮と刻まれている
⑯千貫樋(せんがんどい)・・静岡県駿東郡清水町新宿
伊豆・駿河の国境、境川に架けられている樋で、長さ42.7m、幅1.9m、深さ45cm高さ4.2m。
天文24年(1555)今川、武田、北條3家の和睦が成立した時、北條氏康から今川氏真に聟引出物として小浜池から長堤を築き、その水を駿河に疎通させたと言われている。元々は木製であったが関東大震災で崩壊したためコンクリート製で復元された。(奥で水平に見えるのが樋)
<三島宿>
江戸日本橋から11宿目、京三条大橋から43宿目で東に天下の険、難所の箱根峠が控える宿場。平安時代、伊豆国の国府が置かれた三島は伊豆の中心地となり、後に三嶋大社の門前町として発展、江戸期になって東海道五十三次の宿駅に定められた。人口4084人、家数1025軒、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠74軒の規模であった。
⑰三島宿西見付跡(秋葉神社)
・・静岡県三島市加屋町4−3
現在秋葉神社の場所に設置されていた三島宿京方見付跡。かつては桝形見付があり、宿場への出入りを取締っていた。
⑱世古本陣跡
・・静岡県三島市本町2
世古六太夫が務めた世古本陣。安政4年(1857)、アメリカ人大使タウンゼント・ハリスが泊まった記録もある。
三島宿には他に樋口本陣があった。
⑲三島宿問屋場跡
・・静岡県三島市中央町5
街道を通行する公用の貨客を運ぶための人馬調達を主目的とした問屋場。
箱根、小田原と比べて交通量が多かった三島宿に一箇所の問屋場だったため、多くの役人や人足がいたといわれる。
⑳三嶋大社
・・静岡県三島市大宮町2丁目1−5
本日のゴール
2019.3.4 17:10
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