東海道五十三次
ウォーキング記録
三島宿(第11番) ~ 箱根宿(第10番)
2019.3.5 8:50
本日のスタート地点
①三嶋大社 ・・静岡県三島市大宮町2-1-5
創建時期は不明であるが、古くより三島の地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残る。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格された。社名・神名の「三嶋」は地名ともなった。中世以降、伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願した。神助を得てこれが成功するや、社領神宝を寄せ益々崇敬することとなった。
この神宝の中でも、頼朝の妻、北条政子の奉納と伝えられる 国宝「梅蒔絵手箱 及び 内容品 一具」は、当時の最高技術を結集させたものとして知られている。頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬篤く、また東海道に面し、伊豆地方の玄関口として下田街道の起点に位置し、伊豆国 一宮として三嶋大明神の称は広く天下に広まっていった。(三嶋大社HPより)
←キンモクセイ
境内にある樹齢1200年と言われるこの木はウスギモクセイの雄木として大切に保存され、訪れる参詣者の目を引いている。
②下田街道起点
・・静岡県三島市大宮町2
三嶋大社鳥居の正面はここから伊豆半島先端の下田に続く下田街道。写真左右の東海道からここで分岐する。
③新町橋 ・・静岡県三島市日の出町
新町橋は江戸時代には東海道五十三次の三嶋宿の出入り口として多くの旅人がこの橋を渡った。 快晴の日には素晴らしい富士山の姿が見えることで知られており、浮世絵師の安藤広重もここから見た雪景色の富士山を「東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版」に描いている。(天気の良い日には写真奥の木立の向こうに富士山が見えるがこの日は残念ながら見えなかった)
④初音ヶ原松並木
・・ 静岡県三島市初音台
約1kmにわたる松並木が錦田一里塚とともに箱根旧街道の面影を色濃く残している。
初音ヶ原からの眺望
・・静岡県三島市谷田
錦田一里塚近辺からは富士山が眺望できる
⑤錦田一里塚
・・静岡県三島市谷田
江戸日本橋から28里、京三条大橋から96里の一里塚。初音ヶ原松並木に両塚が現存する。
<箱根路西坂(箱根以西)>
東海道の最大の難所は小田原から箱根を経て三島に至る箱根八里の区間であり、箱根旧街道と呼ばれる。標高846mの箱根峠を越えるため勾配の急な坂道が続き、各坂の最大勾配は平均20%、最大40%と大変な急坂であった。道の地質は粘土質の関東ローム層であり、雨が降るとぬかるみ、滑りやすい道であったが、延宝8年(1680)頃に石畳に改修された。
年月を経て崩壊し、新たに改修された部分も多いが江戸時代の石畳がそのまま残る区間もある。
愛宕坂、臼転坂、題目坂、小時雨坂、大時雨坂、下長坂(こわめし坂)、上長坂(かみなり坂)、小枯木坂、大枯木坂、石原坂、石割坂、兜石坂等の名がつく坂がある。
⑥松雲寺
・・静岡県三島市三ツ谷新田7
明暦2年(1656)創建。江戸時代には参勤交代で東海道を往還する大名の休息所となり、江戸時代末期には徳川家茂や慶喜の寺本陣となった。
境内には明治天皇も行幸の折に休息されたという腰掛石がある。
⑦笹原一里塚
・・静岡県三島市笹原新田
江戸日本橋から27里、京三条大橋から97里の一里塚。初音ヶ原松並木に両塚が現存する。
⑧菊池千本槍の碑
建武2年(1335年)この付近であった水呑峠の合戦で後醍醐天皇の命を受けた先鋒菊池肥後守武重の一千余の兵は槍の原型となる竹竿の先に短刀を括り付けた武器で足利勢に大勝利した。
九州へ帰国したのち武重は刀工延壽に槍を作らせ、後にこれが菊池千本槍と呼ばれるようになった。
⑨山中城址 ・・静岡県三島市山中新田
緑豊かな史跡公園で、特徴的な 堀である「障子堀」、「畝堀」が美しい山城跡。
山中城は永禄年間(1560年代)小田原城を守る城として後北条氏により創築され、天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉の大軍の前に、わずか半日で落城したと言われる悲劇の城である。一般に山城は遺構が分かりにくいことが多いが、山中城跡で整備された遺構は分かり易く、なかでも北条流築城術の粋を集めた「障子堀」や「畝堀」は人気スポット。平成18年、歴史的な面、技術的な面で評価され、「日本百名城」にも選定されている。
富士山・駿河湾を始め、雄大な自然を一望でき、季節には、ツツジ・アジサイ・スイレンが楽しめる。
⑩宗閑寺と武将の墓
・・静岡県三島市山中新田94−1
東月山普光院宗閑寺。ここには山中城の戦いで没した北条軍、豊臣軍の武将達の石碑がひっそりと佇んでいる。豊前守康俊兄弟とその一族、城主松田右衛門太夫、箕輪城主多米出羽守平長定らの墓とともに豊臣軍先鋒の一柳伊豆守直末の墓等が並んでいる。
⑪雲助徳利の墓 ・・静岡県三島市山中新田
元は武士だった松谷久四郎は酒の失敗で藩を追われて箱根で雲助になった。雲助というのは問屋場で働く伝馬人足のことで、険しい箱根峠の道を重い荷物や駕籠を背負って越えることから気が荒く威勢のよい者が多かった。
そんな中で剣術ができ読み書きの教養があった久四郎は仲間の雲助たちに慕われ、死後は好きな徳利を刻んだ墓石が建てられたと言われている。
⑫一本杉石橋
江戸時代の古絵図によれば箱根旧街道西坂には9ヶ所に石橋があったとされているが年月を経て地中に埋もれてしまった。この一本杉石橋は近年の発掘調査で発見され、整備・復元されたもの。
長さ約160cm、幅約60cm、厚さ約35cmの板状の石が6枚、旧街道を横切るように敷き並べられ、板石を頂部としてアーチ状に架けられている。
⑭接待茶屋 ・・静岡県田方郡函南町桑原
文政7年(1824)旅人に無料で粥や焚火、飼葉を提供する「接待所」が、箱根峠から2キロメートル程下ったところに設けられた。資金難から安政元年(1854)に一度閉じたが、明治12年(1879)下総国八石性理教会により「接待茶屋」として再興された。
その後教会の門人、鈴木利喜三郎とその子孫が運営を引き継ぎ、昭和45年(1970)に茶屋を閉じるまで箱根を往来する人馬の救済にあたった。
⑮山中一里塚
・・静岡県田方郡函南町桑原
江戸日本橋から27里、京三条大橋から97里の一里塚。南側が現存する。
⑯箱根峠
・・神奈川県足柄下郡箱根町と静岡県田方郡函南町の境
当初の東海道は箱根の北、相模国と駿河国の境にあたる足柄峠を経由していたが、富士山の延暦噴火(800~802年)で通行困難となったため新たに箱根峠を経由する街道が開かれた。最高標高は846m。
⑰芦川の石仏郡
・・神奈川県足柄下郡箱根町箱根
旧街道向坂地区の入口付近には数多くの石仏・石塔がある。箱根で最も古い万治元年(1658)の庚申塔や、江戸時代後期に建てられた多くの巡礼供養塔などがある。
<箱根宿>
江戸日本橋から10宿目、京三条大橋から44宿目の宿場。箱根峠越えの最中、標高725m地点の芦ノ湖畔に位置し、東海道五十三次の中で最も標高が高い宿である。元和4年(1618)箱根峠越えの利便を図るため三島と小田原から50戸づつを移転させ新たに宿場を成立させた。人口844人、家数197軒、本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠36軒の規模であった。箱根関所が設けられ、入り鉄砲と出女を厳しく監視した。名産物は寄木細工、甘酒等。
箱根宿(芦ノ湖近辺)の旧街道
⑱本日のゴール
芦ノ湖湖畔の箱根駅伝折返し地点
・・・神奈川県足柄下郡箱根町箱根167
2019.3.5 17:15
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