2019.4.15 13:15 <本日のスタート地点>
箱根登山電車風祭駅近辺
・・神奈川県小田原市風祭
近辺の街道 ・・神奈川県小田原市板橋
現在の1号線であり、箱根駅伝のコースともなっている(復路ではかなりの登坂)
江戸時代前期、小田原城下の山王口、板橋や井細田口の三つの出入り口の沿道には、先手筒(さきてづつ:鉄砲を扱う者)や先手弓(さきてゆみ:弓を扱う者)などの組の者が住む御組長屋(新宿町組・山角町組・竹花町組)が設けられていた。ここはその中の一つ「山角町組」があった場所で地名として残っている。
<小田原宿>
江戸日本橋から9番目、京都三条大橋から45番目の宿場。小田原城の城下町であり、西には箱根の山越を控えた東海道屈指の大宿場であった。
宿場の規模は本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒、人口5404人。
名物は蒲鉾、ういろう(薬)、灯篭等であった。
②小田原城 ・・神奈川県小田原市城内
小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた山城だった。城の規模や築城年は明らかになっていないが、15世紀の中頃に造られたと考えられている。 15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していった。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達した。しかし天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えた。 北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修された。その後大久保氏の改易にあたり、城は破却されたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新された。 貞享3年(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至る。
③小田原宿本陣跡
小田原宿には4軒の本陣があった
・清水彦十郎本陣・・神奈川県小田原市本町4丁目
・久保田本陣・・神奈川県小田原市本町3丁目
・片岡翻訳・・神奈川県小田原市本町3丁目
・大清水本陣・・神奈川県小田原市本町3丁目
小田原宿内の街道の現在の姿
④上の問屋場跡 ・・神奈川県小田原市本町4丁目1
問屋場とは人足や伝馬を備えた施設であり、小田原宿には中宿町に上の問屋場、高梨町に下の問屋場があった。
⑤江戸口見附 ・・神奈川県小田原市浜町4丁目
小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する重要な門としての役割を担っていた。 江戸方面から来た場合、門の土塁を一旦右に曲がり さらに左に折れてから城下に入る形になっていた。また入るとすぐ番所があり、通行人の監視などに 当っていた。
⑥山王原一里塚跡 ・・神奈川県小田原市浜町4丁目 江戸日本橋から20里目、京三条大橋から104里目の一里塚。
⑦二宮金治郎表彰の地 ・・神奈川県小田原市東町5丁目
小田原藩主大久保忠真は、文政元年(1818)幕府の老中に任ぜられ江戸に向かう途中、領民の代表を集めて親孝行な者など二宮金治郎をはじめとする十三名を表彰した。時に金治郎32歳であった。その場所がこのあたりの酒匂川堤防下の河原と伝えられる。この表彰によって金治郎(後に金次郎・尊徳)は忠真の厚い信頼を得て桜町や小田原をはじめ全国六百余の農村の復興や藩などの財政再建に貢献した。
⑧酒匂(さかわ)川の渡し ・・神奈川県小田原市東町~小田原市西酒匂
江戸時代、小田原を流れる酒匂川には橋がなく、舟渡しが行われていたが延宝2年(1674)、舟渡しが禁止され、徒渉(かちわたり)制が施行された。冬は仮橋を渡ったが夏は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めとなった。川留めは旅を急ぐ人々にとって大変な難儀であり、旅人は付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。
⑨小八幡一里塚 ・・神奈川県小田原市小八幡3丁目
江戸日本橋から19里目、京都三条大橋から105里目の一里塚。
この辺りでは街道の北側の塚を「男塚」、南側の塚を「女塚」と呼んでいた。
⑩御勸堂 ・・神奈川県小田原市国府津
御勸堂は親鸞聖人の説かれる本願他力の教えを、当時の慣例で寺院参拝が出来ない立場であった数多くの民衆のために誰でも聞法ができるように村の中に建てられた草庵である。
大山道(おおやまどう)とは、主に江戸時代に関東各地から相模国大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称。大山街道とも呼ばれる。代表的なものとして、「田村通り大山道」や「青山通り大山道」などがある。
この道標は東海道から羽根尾通り大山道への分岐点にある。
⑫松屋本陣跡 ・・神奈川県中郡二宮町山西410
大磯宿~小田原宿の距離が16kmと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから、 この辺りに間の宿(あいのしゅく)として休憩所が設けられ、大友屋・蔦屋・釜成屋など多くの茶屋や商店が軒を並べ、「梅沢の立場」と呼ばれて大変賑わっていた。その中心的存在となっていたのが「松屋本陣」であり、参勤交代の諸大名・宮家・幕府役人など、特権階級にあたる人達の休憩所に指定されていた。
⑬押切坂一里塚跡 ・・神奈川県中郡二宮町山西
江戸日本橋から18里目、京三条大橋から106里目の一里塚。(二宮一里塚とも呼ばれる)
<本日のゴール>
・・神奈川県中郡二宮町山西
2019.4.15 17:50