大磯宿(第8番) ~ 藤沢宿(第6番)

2019.4.16  8:00


<本日のスタート地点>


   ・・神奈川県中郡二宮町山西





①国府本郷一里塚跡

    ・・神奈川県中郡大磯町国府本郷


江戸日本橋から17里目、京三条大橋から107里目の一里塚



大磯城山公園前から望んだ富士山

  ・・神奈川県中郡大磯町国府本郷



②大磯松並木
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神奈川県中郡大磯町東小磯


旧東海道(現在の1号線)に沿って松並木が続く



<大磯宿>

江戸から8宿目、京から46宿目の宿場。

本陣3軒、脇本陣0軒、旅籠66軒、人口3056人の規模であった(天保14)



③大磯宿上方見附
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神奈川県中郡大磯町

見附とは本来城下に入る見張りの門のことであるが、江戸時代の宿場の出入り口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。 宿場の京都側にあるものを上方見附、江戸側にあるものを江戸見附と呼んでいた。
 この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目はなくなり、旅人に宿場の出入口を示す役目をはたすようになった。



④鴫立(しぎたつ)庵
  ・・神奈川県中郡大磯町大磯1289

江戸初期の1664年、西行法師の詠んだ歌

心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮≫

に因み、小田原の祟雪が昔の沢らしい面影を残す現在の鴫立庵の地を選んでこの地を「鴫立沢」と名づけ、標石を建てたのが始まり。

その後、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が鴫立庵主第一世として入庵して以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として、現在の第二十二世 鍵和田庵主へと続いている。



 ⑤湘南発祥之地碑 ・・神奈川県中郡大磯町大磯1292

 前述の崇雪が寛文4年(1664)頃、標石をたてて東海道を往還する旅人に鴫立澤を示して「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えて刻んだ。中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ているところから、 湘南と呼ばれるようになったもの。



付近の旧街道(現在の1号線)
  ・・神奈川県中郡大磯町大磯1302付近



⑥南組問屋場跡
  ・・神奈川県中郡大磯町大磯
1104

人足や馬の差配を取り仕切る場所である問屋場が大磯宿には2ケ所(北組と南組)あり、それぞれに問屋年寄1人、帳付4人、人足指2人、馬指2人が置かれ、交互に役を勤めていた。



⑦新島襄終焉の地碑  ・・神奈川県中郡大磯町大磯1104

明治18年(1885年)に松本順により医療の目的で大磯に日本で初めての海水浴場が開設された。新島襄は明治2211月、病に倒れたのを機に知人の勧めもあり、同年1228日、大磯で静養し再起を計ることになり、海岸に程近い百足屋(むかでや)旅館の、松林に囲まれた別館の愛松園にて滞在していたが、明治23120日危篤となり、妻の新島八重も京都から大磯にやって来た。「グッドバイ、また会わん」。これが襄が八重に送った最後の言葉である。襄は123日午後221分、4611ケ月の生涯を閉じ、大磯が終焉の地となった。



⑧大磯宿本陣跡
   ・・
神奈川県中郡大磯町大磯


大磯宿には小嶋・尾上・石井の3軒の本陣があった。南本町にあった石井本陣は早く幕を下ろしたが、尾上本陣、小嶋本陣は幕末まで続いた。



⑨大磯宿江戸方見附跡
    ・・
神奈川県中郡大磯町大磯


前述の上方見附と同様にこちらは江戸側の見附。かつては松並木に設置され、宿境には木製の傍示杭が建てられていた。



⑩化粧坂一里塚跡
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神奈川県中郡大磯町大磯


江戸日本橋から16里目、京三条大橋から108里目の一里塚



  ⑪虎御前化粧井戸
   ・・神奈川県中郡大磯町大磯
64

曾我兄弟の仇討ち伝説に登場する女性、虎御前がこの井戸で朝夕化粧していたことから名づけられたと言われている。



高来神社 ・・神奈川県中郡大磯町高麗2丁目

当神社の起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。江戸時代には徳川家康より寺領百石と山林を賜り、東照権現を併せ祀った。東照宮は徳川家康の神影であるため、参勤交代の諸大名は高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはならなかった。

   


⑬高麗山 ・・神奈川県中郡大磯町高麗

江戸時代まで高麗時という寺が山中にあり、現在の高来神社も高麗神社として寺内にあった。奈良時代にこの山側一帯に高句麗からの渡来人が居住し集落を作ったことから「高麗山」の名前がついたといわれている。

 この山は宿間距離が約2.8kmと近い平塚宿と大磯宿の間に位置する。江戸を出発して京方面に向かう旅人は比較的栄えた大磯宿に泊まる人が多かったため手前の平塚宿の人達は「お客さん、大磯宿へはあの山を越えなくては行けませんよ」と言って平塚宿に泊まらせたという笑い話も伝わる。実際には迂回ルートがあるため山を越える必要はなかった。


<平塚宿>

江戸日本橋から7宿目、京三条大橋から47宿目の宿場。平塚宿は相模川を利用した物資の集散地として、また東海道や八王子街道等の交通の要所として栄えた。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒、人口2114人の規模であった。



⑭平塚宿京方見附跡
  ・・神奈川県平塚市平塚4丁目

京側の出入口にあたる京方見附があった。



平塚の塚由来

「平塚」という地名の由来として知られているのが「平塚の塚」。天安元(857)、桓武天皇の孫・高見王の娘である政子が、京都から東国に下る途中にこの地で没し、そのひつぎを埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らだったことから「平塚」という地名が起こったといわれている。



⑮平塚宿問屋場跡
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神奈川県平塚市平塚4丁目

問屋場はここ西組問屋場の他、加宿である八幡新宿には東組問屋場があり、十日交代で執務していた。



⑯平塚宿本陣跡
   ・・
神奈川県平塚市平塚2丁目

本陣職を務めた加藤家は代々加藤七郎兵衛と称していた。間口約30m、奥行約68mあった。天保14(1843)当時は建坪163坪あった。敷地が約618坪であった。記録によれば14代将軍徳川家茂は文久3(1863)と元治2(1865)2回、加藤本陣で休憩している。



⑰平塚宿高札場跡
   ・・神奈川県平塚市平塚2丁目

平塚宿の高札場の規模は長さ2間半(5m)、横1間(1.8m)、高さ11(3m)だった。平塚宿から藤沢宿、あるいは大磯宿までの公定運賃なども掲げられていた。



平塚宿脇本陣跡
   ・・神奈川県平塚市平塚2丁目

平塚宿の脇本陣は享和年間(1801〜1804)には西組問屋場の京方見附寄りにあったが、天保年間(1830〜1844)には加藤本陣の江戸見附寄りのこの地で山本安兵衛が営んでいた。



⑲平塚宿の江戸見附 ・・神奈川県平塚市見附町1

この江戸見附と京側の上方見附の間が平塚宿内であり、町並みは東西に146(1.5km)だった。この江戸見附は長さ約3.6m、幅約1.5m、高さ約1.6mの石垣を台形状に積み、頂部を土盛りして東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていた。

  明治14頃の江戸見附


⑳馬入一里塚跡
   ・・
神奈川県平塚市馬入本町

江戸日本橋から15里目、京三条大橋から109里目の一里塚



21. 旧相模川橋脚  ・・神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁

旧相模川橋脚は、大正年の関東大震災と翌年1月の余震によって水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(192))に国の史跡に指定された。

  また平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、平成1926日に追加指定を受けた。(写真は橋杭のレプリカ)


22. 茅ヶ崎一里塚
   ・・
神奈川県茅ケ崎市元町6

江戸日本橋から14里目、京三条大橋から110里目の一里塚



23. 牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)

        ・・神奈川県茅ヶ崎市松林1丁目

旅人が休憩することができる立場。ここは牡丹餅が名物だったためこの名がついた。ここには紀州徳川家が江戸屋敷と国元を結んだ専用の飛脚中継所である七理役所も設けられていた。



<本日のゴール>
神奈川県藤沢市辻堂神台2丁目

2019.4.16   16:40



   
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