戸塚宿(第5番) ~ 神奈川宿(第3番)

2017.5.16  13:05

<本日のスタート地点>


江戸見附前交差点

  ・・・神奈川県横浜市戸塚区吉田町





①五太夫橋・・神奈川県横浜市戸塚区吉田町

石巻(康慶)五太夫は小田原北条氏の家臣で豊臣秀吉 の小田原攻めの際、北条方の使者だった。北条氏滅亡後、鎌倉郡中田村で謹慎していた五太夫が天正18年(1590)江戸に入る徳川家康をこの辺りで出迎えたことから、五太夫橋の名がついたと言われている。泉区の中田町には五太夫の墓がある。



②品濃坂
  ・・・
神奈川県横浜市戸塚区品濃町

品濃坂は朝早く江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿へと向かう旅人には宿場町までもう一歩のところ。一方江戸方面に向かう旅人にとっては最後の急な上り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息の場所であった。



③品濃一里塚 ・・神奈川県横浜市戸塚区平戸4丁目

江戸日本橋から9里目、京都三条大橋から115里目の一里塚。

旧東海道を挟んで道の東西に2つの塚があり、東の塚は平戸村内、西の塚は品濃村内に位置していた。

道の両側の塚がほぼ当時の形で残っている所は非常に珍しい。



④焼餅坂
 
・・神奈川県横浜市戸塚区品濃町

武蔵国と相模国の国境に位置する一町半(160m)の坂道。

坂の傍らには一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われている。



⑤境木地蔵尊 ・境木立場跡

  ・・神奈川県横浜市戸塚区平戸3丁目

境木は武蔵国と相模国の国境に位置し、保土ヶ谷宿からも戸塚宿からも難所の坂を上り詰めたところにある見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所だった。また茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わった

ここには境木地蔵があり道中の安全を祈る多くの旅人が参拝した。

 


⑥権太坂 ・・神奈川県横浜市保土ケ谷区権太坂

昔は現在よりも急な坂で江戸からの旅人が最初に出会う難所であった。本来の権太坂はここであるが、近くを通る国道1号線の坂も権太坂の名がついており箱根駅伝のコースとなっている。



⑦保土ヶ谷一里塚跡 ・上方見附跡

 ・・神奈川県横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷2丁目

江戸日本橋から8里目、京都三条大橋から116里目の一里塚跡。

また保土ヶ谷宿の京側(上方)の出入口にあたる上方見附もこの付近にあった。

見附は土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれている。



<保土ヶ谷宿> 

江戸日本橋から4宿目、京都三条大橋から50宿目の宿場。北に八王子道、南に鎌倉道があり交通の分岐点でもあった。江戸側からは最初の難所である権太坂を控えており、途中で行倒れる人を葬るための投込み塚までがあった。

宿場の規模は本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠67軒、人口2928人の規模であった。



⑧旅籠 金子屋
 ・・神奈川県
横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷町


保土ヶ谷宿の上旅籠であった金子屋。

格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は明治2(1869)の建築。





⑨保土ヶ谷宿脇本陣(水屋)

  ・・神奈川県横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1丁目

保土ヶ谷宿には水屋・藤屋・大金子屋の3軒の脇本陣があった。

ここ水屋は建坪128坪(約423㎡)、間口8間(約14.5m)、奥行16間(約29m)、室数14の規模であった。

 


⑩保土ヶ谷宿 本陣跡
・・
神奈川県横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1丁目

保土ヶ谷宿本陣は小田原北条氏の子孫、苅部家が代々務め、問屋・名主を兼ねる等、保土ヶ谷宿の最も有力な家であった。安政6(1859)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くした。明治3年に軽部姓に改称し、現在に至っている。



⑪金沢横町道標四基

 ・・神奈川県横浜市保土ケ谷区帷子町2丁目71

この地は金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれていた。金沢・浦賀往還には円海山、杉田、富岡等の信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在も残っている。 右から、

円海山之道・・天明3(1783)建立

・かなさわ、かまくら道・・天和2(1682)建立

・杉田道・・文化11(1814)建立

・富岡山芋大明神社の道・・弘化2(1845)建立



⑫保土ヶ谷問屋場跡
 
・・神奈川県横浜市保土ケ谷区帷子町2丁

宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、書状の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の最も重要な施設の一つであった。



⑬帷子(かたびら)橋跡
 ・・神
奈川県横浜市保土ケ谷区岩間町1丁目

江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた。絵画、歌、俳句などに取り上げられた保土ヶ谷宿の代表的な風景となっていた。



⑭保土ヶ谷宿 江戸方見附跡

  ・・神奈川県横浜市保土ケ谷区天王町1丁目


保土ヶ谷宿の江戸側の見附(出入口)であり、前述の上方見附との間が保土ヶ谷宿である。



<神奈川宿> 

江戸日本橋から3宿目、京都三条大橋から51宿目にあたる宿場。

昔の東海道は海に沿って延びていて、ここ神奈川宿も東海道有数の景勝地である袖ケ浦のそばにあったため、旅人のみならず観光客も数多く滞在した。

また安政5(1858)の日米修好通商条約締結後、開港場としても賑わった。

本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠58軒、人口5793人の規模であった。



⑮芝生(しぼう)追分
  ・・神奈川県横浜市西区浅間町4丁目348


東海道と八王子道の分岐点

 


⑯神奈川台関門跡
 ・・
神奈川県横浜市神奈川区台町10−33

安政5(1858)、横浜が開港されると、国内の尊王攘夷運動の煽りを受けて外国人の殺傷事件が度々発生した。イギリス総領事オールコックをはじめとする各国の領事らの非難を受けて幕府は、安政6(1859)、神奈川宿の東西に関門を設置。その西側の関門が「神奈川台関門跡」であり、現在、碑が立っている。明治4(1871)年に関門・番所とも廃止された。



⑰田中屋
  ・・
神奈川県横浜市神奈川区台町11-1

 この辺りは神奈川台町と呼ばれ海の眺めを楽しむため、坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいた。その様子は広重の「東海道五十三次」の神奈川宿台之景にも描かれており、その絵の坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字が読める。幕末の頃、文久3年(1863)に田中家が「さくらや」を買い取り、現在も割烹料亭として営業を続けている。

 この店は米国総領事ハリス、伊藤博文、西郷隆盛、高杉晋作、夏目漱石等の著名人が利用した店であり、また坂本龍馬の妻「おりょう」が竜馬亡き後、住み込みの仲居として勤めていたこともある。

 


⑱神奈川一里塚跡

 ・・神奈川県横浜市神奈川区台町

大綱金刀比羅神社前の街道両側に一里塚が設置されていた。

江戸日本橋から7里目、京都三条大橋から117里目の一里塚。



⑲アメリカ領事館跡(本覚寺)
  ・・神奈川県横浜市神奈川区
高島台1-2

本覚寺1226年に創建された臨済宗の寺院であるが幕末の横浜開港時には横浜港が一望できることからアメリカが領事館として使った。

生麦事件で負傷したウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルが逃げ込み、治療を受けたことでも有名。



⑳フランス公使館跡(甚行寺)
 
 ・・神奈川県横浜市神奈川区青木町


甚行寺は明暦2(1656)創建の寺院であるが、横浜開港後に改造が加えられてフランス公使館として使われた。



<本日のゴール>

神奈川公園
  ・・神奈川県横浜市神奈川区栄町12

  2019.5.16  17:40

 


   
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