神奈川宿(第3番) ~ 品川宿(第1番)

2019.5.17  8:35

<本日のスタート地点>

神奈川公園
  ・・神奈川県横浜市神奈川区栄町12



①神奈川宿本陣跡

  ・神奈川町本陣跡
     ・・神奈川県横浜市神奈川区神奈川2丁目

  ・青木町本陣跡
     ・・神奈川県横浜市神奈川区栄町

神奈川宿には本陣が2軒あり、神奈川町本陣は石井家、青木町本陣は鈴木家が務めた。



②上無川 (神奈川の語源)

「神奈川」は鎌倉時代にも使われていた古い地名であるが、その語源は諸説ある。

その一つに「町を横切って流れる川が水量が少なく水源も定かでないため上無川(カミナシガワ)と呼ばれており、それを略してカナガワと呼ぶようになった」という説がある。



③良泉寺
・・神奈川県横浜市神奈川区新町9−3

幕末期の開港後、この地域の多くの寺院が外国の領事館として使われたが、それを良しとしなかったこの寺の住職は本堂の屋根を剥がし、修理中であるとの理由で幕府の命令を断ったと伝わる。



④オランダ領事館跡(長延寺跡)
  
・・神奈川県横浜市神奈川区新町15−4


この地にあった長延寺は横浜開港当時、オランダ領事館として使われた。長延寺はその後移転したため現在は公園となっている。



⑤東子安一里塚跡
 ・・神奈川県横浜市神奈川区子安通3丁目

 江戸日本橋から6里目、京都三条大橋から118里目の一里塚跡。この一里塚の正確な場所は定かでないが、文化3(1806)完成の東海道分間延絵図に基づき推定されたのがこの地。



⑥生麦事件碑
   ・・神奈川県横浜市鶴見区生麦1丁目

 文久2(1862)821日、幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩島津久光の一行が東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人4名と遭遇、行列を妨害したとして護衛の薩摩藩士が1名を殺害、2名に深手を負わせたのが生麦事件。この事件は翌年に薩英戦争を引き起こした。



⑦鶴見橋関門旧跡 ・・神奈川県鶴見区鶴見中央2

 安政6(159)6月、横浜開港とともに神奈川奉行は外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に関門や番所を設けて横浜に入る者をきびしく取り締まった。 鶴見橋関門は万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅四間(約7m)を除き左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものだった。


⑧鶴見川橋  ・・神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央2丁目

 鶴見川橋は徳川家康が東海道を整備した慶長6(1601)頃に架けられたと言われている。

 日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋で、橋の周辺は視界が開け、橋の上から大山や箱根連山が見えたという風光明媚な場所であったため、多くの紀行文、歌、俳句、絵などに登場する。

   


⑨市場一里塚
・・神奈川県横浜市鶴見区市場西中町4−8


 江戸日本橋から5里目、京都三条大橋から119里目の一里塚。



⑩川崎宿京入口
 ・・神奈川県川崎市川崎区小川町


川崎宿の京側の出入口



<川崎宿>

 江戸日本橋から2宿目、京都三条大橋から52里目の宿場。この宿場は宿駅伝馬制制定から遅れること22年の元和9(1623)に品川宿、神奈川宿の負担を軽減するために設置された。

 本陣2軒、脇本陣0軒、旅籠72軒、人口2443人の規模であった。



⑪小土呂橋碑
 ・・
神奈川県川崎市川崎区小川町14−1

ここには幅5mほどの新川堀と呼ばれて渡田大島を経て海に繋がる用水があり、東海道と交わるところに小土呂橋が架かっていた。

堀は昭和になって埋め立てられたため、橋の欄干の親柱2基が保存されている。



⑫川崎宿問屋場跡
   ・・
神奈川県川崎市川崎区砂子1丁目7−1


この問屋場には30人ほどの問屋場役人が昼夜交代で勤務しており繁忙を極めていた。



⑬田中本陣跡 ・・神奈川県川崎市川崎区本町1丁目4−6

 田中本陣は川崎宿に3(後に1軒が廃業して2軒)あった本陣のうち、江戸側にあったことから下本陣と呼ばれた。本陣家の主人であった田中休愚は、本陣、名主、問屋の三役を兼務し、六郷の渡船権を譲り受けて、宿場の財政を立て直した。そして「民間省要」を著し、二ヶ領用水や酒匂川の治水に活躍し、幕府の勘定支配格(大名並み)に登用された。

 江戸後期には長年の参勤交代による大名家の財政悪化や文久2(1862)の参勤交代制緩和による利用度の低下、さらには大飢饉や天災等によって本陣は次第に衰退してゆき、アメリカ駐日総領事ハリスが田中本陣のみすぼらしい様を見て、宿を万年屋に変更した話は有名である。

   


⑭六郷の渡し ・・東京都大田区仲六郷4丁目29

 関東でも屈指の大河である多摩川の下流は六郷川と呼ばれ、かつては東海道の交通を遮る障害であり、慶長5年(1600)徳川家康が六郷大橋を架けたことは広く知られている。多摩川における最初の架橋であり、千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。この年は「関が原の戦い」が行われた年(1021日)でもあり、家康率いる東軍が六郷大橋を渡橋した。
 以降度々の洪水によって流失、架け直しを繰り返したが、貞享5年
(1688)の洪水による流失を契機とし、それ以降、渡船が用いられるようになった。これが江戸時代から明治へ続く「六郷の渡し」の始まりである。

 渡船は当初江戸の町民が請け負ったが宝永6年(1709)3月から川崎宿が請け負うようになり渡船収入が川崎宿の財政を大きく支えることになった。

 右岸:神奈川県川崎市

 左岸:東京都大田区



⑮六郷神社(東京都大田区東六郷3-10-18)  ・ 六郷一里塚跡

 社伝によれば天喜5年(1057)源頼義、義家の父子がこの地の大杉に源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝わる。  

 文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉例にならい、白旗を立てて戦いでの勝利を祈願したので、建久2年(1191)梶原景時に命じて社殿を造営した。 現在、社宝となっている雌獅子頭(めじしがしら)と境内に残る手水石は、このとき頼朝が奉献し、神門前の太鼓橋は、景時が寄進したものと言われている。

 この神社の近くに六郷一里塚があった。江戸日本橋から4里目、京都三条大橋から120里目の一里塚である。

     


<大森の海苔>

ここ現在の大田区大森は元禄年間(1688)から昭和まで海苔の養殖が盛んであった。それに伴い海苔の問屋も増えてゆき、大森は海苔の問屋街となり、現在も旧街道沿いに海苔関連の看板が多くみられる。



⑯鈴ヶ森刑場跡 ・・東京都品川区南大井2丁目7−3

 慶安4年(1651)に開設された御仕置場の跡。磔台や火炙台の一部が今も残る。

ここで処刑された人物は有名な「天一坊」、「八百屋お七」をはじめ、10万人~20万人と伝わる

     


⑰浜川橋 ・・東京都品川区東大井2丁目

 立会川が海にそそぐこのあたりの地名「浜川」から名付けられたこの橋のまたの名を「涙橋」という。

慶安4年(1651)、鈴ヶ森のお仕置場が設けられ、ここで処刑される罪人は裸馬に乗せられて護送されてきた。その時に親族らが密かに見送りに来てこの橋で供に涙を流しながら別れたということから涙橋と呼ばれるようになった。

 


⑱浜川砲台 ・・東京都品川区東大井2丁目26−18

 嘉永6年(1853)6月、アメリカ合衆国のペリー提督率いる艦隊が来航して開国を迫ったのを機に、日本側は次回は戦争になると想定して江戸湾の防衛に力を入れ始め、土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので砲台を作ることを幕府に願い出た。嘉永7(1854)1月、ペリー艦隊が再来航した際に急遽土佐藩が作ったのが浜川砲台である。六貫目ホーイッスル砲1門、一貫目ホーイッスル砲2門、鉄製五貫目砲5門の計8問を配備した砲台だった実物が無いため丸太を大砲らしく見せた藩もあった中で土佐藩の砲台は評判であった。

なお、若き日の坂本龍馬がここで警備の任についていたとも伝わる。

   


<本日のゴール>

鮫洲運動公園

  ・・東京都品川区東大井1-4-11


   2019.5.17  17:20




   
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