品川宿(第1番) ~ 江戸日本橋(ゴール)

<本日のスタート地点>


鮫洲運動公園

 ・・・東京都品川区東大井1-4-11


    2019.5.18  8:55



<品川宿>

品川宿は江戸を出て最初の宿場で京都三条大橋から53宿目の宿場であり、目黒川をはさんだ南品川宿、北品川宿および京保年間にできた歩行新宿(かちしんしゅく)の三宿で構成されていた。 日本橋から2里の所にあり、東海道で最も賑わった宿場の一つであった。また中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。

本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠93軒、人口6890人の規模であった



①品川寺 ・・東京都品川区南品川3丁目5-17

海照山普門院 品川寺は、真言宗醍醐派の別格本山で大同年間(806810)の開創と伝えられる品川区で最も古いお寺。本尊は水月観音。東海七福神の毘沙門天を祀っている。 入口にある銅造地蔵菩薩坐像は「江戸六地蔵」の一つ。鐘楼の大梵鐘は慶応3(1867)パリ万国博覧会出品後に行方不明となったがスイス・ジュネーヴで発見され、60余年を経て昭和5年に里帰りしたため、「洋行帰りの鐘」と呼ばれている。

   


②釜屋跡 ・・東京都品川区南品川3-6-52

釜屋は立場茶屋(宿場間で旅人がお茶や食事をして休息する場所)だったが、本来の休息所から旅籠に発達し、幕末には本陣のような構えに改造し幕府御用宿となった。
慶応
31021(1867)に新撰組副長の土方歳三らが訪れた記録が残っており、翌4115(1868)には鳥羽伏見戦から江戸に戻った新選組隊士たちがしばらく滞在した。



品川宿内の現在の旧東海道



③品川宿脇本陣跡
 ・・
東京都品川区南品川1丁目4-25


日本橋から東海道を上り、目黒川を渡ると南品川宿に入る。この場所は、品川宿の脇本陣跡であり、百足屋(広瀬)治兵衛が営んでいた。



④品川宿本陣跡
 ・・
東京都品川区北品川2-7-21

江戸前期には北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣があったが、中期以降はこの北品川宿一つだけになったもので、品川三宿のほぼ中央に位置していた。



⑤品川宿の石垣石
   ・・
東京都品川区北品川1-30-9

下に見える石材はかつて品川宿街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣に使われていたものである。



⑥土蔵相模跡
 ・・
東京都品川区北品川1-22-17

旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていた。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所として知られている。



⑦現在の旧東海道
  ・・東
京都港区高輪4丁目近辺


ここ品川駅近辺は現在は国道15号線(第一京浜)となっている。

この左手前に伊藤博文旧邸宅地がある。



⑧泉岳寺 ・・東京都港区高輪二丁目11-1

泉岳寺は慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した曹洞宗の寺院であるが、一般的には赤穂義士のお墓があることで有名。

 元禄14(1701) 314日、江戸城中で旗本・吉良義央に切りつけ、即日切腹処分となった播磨赤藩の藩主・浅野長矩(内匠頭)と、翌年1214日に江戸本所の吉良邸に押し入って主君の仇を討った47人の赤穂義士の墓塔がある。一般に「四十七士」と言われる赤穂浪士であるが、泉岳寺には討ち入り前に自害した萱野重実(三平)の供養塔を含めて48基の墓がある。その内、その萱野重実と遺骸を遺族が引き取った間光風(新六)、そして討入りに参加した浪士の中で唯一人切腹をまぬがれた寺坂信行(吉左衛門)の墓塔は遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。 義士たちの墓は討ち入り後の預け先によってそれぞれ分けて並べられている。

 
 ↑ 浅野内匠頭の墓
↑大石内蔵助
 の墓


高輪大木戸跡 ・・東京都港区高輪2丁目19

 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源であり、享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1792)など諸説がある。
 江戸の南の入口として、道幅約6間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、 治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4m、長さ7.3m、高さ3.6m の石垣のみが残されている。

   


⑩西郷南洲・勝海舟会見の地 ・・東京都港区芝5-33-1

 慶應4年(1868)、この地にあった薩摩藩邸において西郷隆盛と勝海舟が会見し、江戸城無血開城が話し合われた。新政府軍の江戸城総攻撃は、慶応4年(1868年)315日と予定されていたが、その直前、西郷隆盛と勝海舟の会談が2回行われ、一度目の予備会談は313日高輪の薩摩藩邸で、二度目は翌14日の田町薩摩藩邸(当地、蔵屋敷)で行われた。




現在の銀座を通る旧東海道

 


⑪銀座発祥の地
  ・・東京都中央区銀座2丁目7

 慶長17年(1612)、徳川幕府は現在の中央区銀座に銀座役所(銀貨幣鋳造所)を設置。当時、町名は新両替町とされたが通称で銀座と呼ばれ、その後明治2年には正式に町名が銀座となった。

 


⑫京橋跡 ・・東京都中央区銀座一丁目、京橋3丁目

 京橋は、慶長8(1603)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋。昭和の京橋川の埋立て工事に伴って撤去されたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されている。

 


⑬江戸歌舞伎発祥の地
    ・・東京都中央区京橋
3-4

寛永元年(1624)、猿若中村勘三郎が中橋(現在の日本橋と京橋の中間)に、猿若中村座の櫓をあげたのが江戸歌舞伎の始まり。当時この中村座の後に、市村座、森田座、山村座と続き、この四座が官許の芝居小屋だった。役者の氏神といわれた市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎などの役者が絶大な人気を得、江戸歌舞伎は大衆文化の頂点に立ったのであった。

 


⑭日本橋魚河岸跡
  ・・
東京都中央区日本橋室町1丁目8

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」があった。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まる。この魚市は広い範囲で開かれていたが、中でも日本橋川沿いが中心で、江戸で最も活気のある場所の一つだった。



日本国道路元標・・東京都中央区日本橋室町

日本国道路元標は明治時代に全国の国道の起点と定められたものであるが、そのルーツは江戸幕府が五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)を制定し、日本橋をその起点と定めたところにある。

写真は歩道脇に設置されたレプリカであり、本物は日本橋の道路中央に埋め込まれている。



<このウォーキングの最終ゴール>

⑮江戸日本橋 ・・東京都中央区日本橋

日本橋が最初に架けられた時期は明確ではないが慶長8年(1603)の説が有力。翌年の慶長9年には徳川家康が各街道に一里塚を設けることを命じ、その起点が日本橋であった。

東海道の東の起点、また京の都からの東下りの私達の「東海道五十三次・街道を歩く」のツアーのゴールがここ日本橋である。

 
 2019.5.18  12:30   ついにゴールに到達しました!!



   
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