草津宿(第68番) ~ 守山宿(第67番)

2019.9.21  9:44
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本日のスタート地点>・・草津市草津4丁目

中山道ウォーキングは草津宿の立木神社横からスタート






①立木神社・・草津市草津4丁目
草津宿の西の入口に位置する立木神社

古来より五穀豊穣、家内安全、安産、商売繁盛、火災鎮護並びに勧学の大神として崇敬されており、近年は交通安全厄除けの神社として信仰を集めている。

石造道標(追分道標)・・立木神社内

草津宿にある東海道と中山道の追分(分岐点)に設置されていたと推定される道標で建立は延宝8(1680)

現在は立木神社境内に置かれている。

「みぎハたうかいとういせミち」

「ひだりは中せんたうをた加みち」

と記されている。


<草津宿>

草津宿は中山道と東海道の追分(分岐点)に位置し、江戸日本橋から中山道では69番目、東海道では52番目の宿場町。交通の要衝として賑わい、当時の規模は人口2351人、家数586軒、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒であった。2軒の本陣の内、田中七左衛門本陣は今も貴重な遺構を残している。


②太田酒造_道灌蔵・・草津市草津3丁目

江戸城を築城した武将太田道灌を先祖に持つ太田家が海道の守りのために草津に移り、この地域の良質な近江米を使って酒造りを始め、先祖の名にちなんで「道灌」と名づけた。


草津宿内の街道風景


③田中九蔵本陣跡・・草津市草津2丁目

草津宿にあった2軒の本陣のうちのひとつ。

建物は残っていない。


④脇本陣跡・・草津市草津2丁目

草津宿の2軒の脇本陣の内の1件。

現在はベーカリー&カフェとなっている。


⑤草津宿本陣(田中七左衛門本陣)

               ・・草津市草津1丁目
当時は大名などが宿泊した本陣。現存する本陣では最大級とのこと。
浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三、篤姫・・等が宿泊、または休憩で立ち寄った。


⑥追分道標・・草津市草津1丁目
東海道と中山道の分岐点。
「右東海道いせみち」「左中仙道美のぢ」と書かれている。土手は草津川
(天井川)の名残り。中山道は直進、東海道は右折。

当時中山道を進むには天井川の土手を登り、川を渡る必要があった。普段は水の無い砂川であったが、一人3文の川渡賃が徴収された。水がある場合は人に担がれて渡り、川渡賃は水嵩により8(1)から32(3)であった。

   

⑦旧草津川の名残り・・・草津市草津1丁目

旧草津川は現在は埋め立てられて公園になっている。


⑧一里塚跡・・・滋賀県草津市大路1丁目

江戸日本橋から129里目の一里塚



⑨伊砂砂神社 ・・滋賀県草津市渋川2-2-1

遠く平安の昔、この地に疫病が流行した折、村人がその鎮静を願って大将軍(勝運の神・病除の神)を祀ったのが始まりと伝わる。現在の本殿は應仁2年(1468)に建立されたもの。

道路沿いの石垣は鎌倉時代のものと伝わる。

   


⑩大宝神社
  ・・滋賀県栗東市綣
7-5-5

創建は大宝年間(701704)と伝えられ、古くは大宝天皇社・今宮応天宮と称した。

中世には近江守護佐々木氏の崇敬が篤く、社運は隆盛を極めたと伝わる。



住蓮房母公墓 ・・滋賀県守山市焔魔堂町53

法然上人の二人の弟子、安楽坊、住蓮坊が行っていた「六時礼賛」という念仏会に後鳥羽上皇の二人の侍女が参加し、二人の弟子はこの侍女を剃髪、出家得度させた。これを知った上皇は安楽坊を六条の河原で、住蓮坊を近江の馬渕村で処刑し、法然上人は土佐に流罪とした。
息子が捕えられ、処刑されることを知った
住蓮母公は、住蓮に会いたい一心で馬渕村へ急いだが時すでに遅く、住蓮処刑された後であった。
母公は最早これまでと閻魔堂の池に入水自殺し、その母公の墓が市村家の屋敷内にあり、今も供養されている。

 


⑫今宿一里塚
    ・・
滋賀県守山市今宿2丁目4−36

江戸日本橋から128里目の一里塚。

滋賀県内で唯一現存する一里塚。

 


<守山宿>

江戸日本橋から68番目の宿場。

守山寺東門院の門前町として、また江戸時代には朝鮮人街道や東海道石部宿への交通の要衝として栄えた。比叡山の東門として山を守るというのが守山の語源である。

当時の宿場の規模は長さ1153(1296m)、人口1700人、家数415軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠30軒であった。



⑬東門院 ・・滋賀県守山市守山2丁目2-46

延暦7(788)、最澄大師が比叡寺(延暦寺)を開基した際、四境に門を構え、その内の東門として建立したのがこの寺の始まりとされる。

その後、桓武天皇により「比叡山を守る東門」として「比叡山東門院守山寺」の名と寺領5350石を賜った

   


⑭錦織寺道道標 ・・滋賀県守山市守山2丁目11

錦織寺道と中山道の分岐点に立つ道標。

「右 中山道 美濃路」

「左 錦織寺四十五丁こ乃者満ミち」

と刻まれている。



⑮守山宿本陣跡 ・・滋賀県守山市守山1丁目9

この場所に小宮山九右衛門本陣があったと推定されている。江戸時代には問屋、脇本陣の機能も果たした。

文久元年(1861)皇女和宮親子内親王が御所から江戸城に向かう旅程でここに宿泊された。


⑯井戸跡・・・滋賀県守山市守山1丁目9

天保4年(1833)の宿場絵図に記載がある。守山宿は高地であり水路が無いためこの井戸の水は宿場の防火や生活用水に使われたと思われる。


⑰うの家・・滋賀県守山市守山1丁目10-2

造り酒屋だった旧宇野本家(75代内閣総理大臣故宇野宗佑氏の生家)

江戸時代末期から明治初期に建てられた主屋、町家などを改修し、市民交流・活動の場に整備されている


⑱稲妻型屋敷割り

守山宿の街道筋は道路に沿った民家の敷地が一戸毎に段違いになっていることが特徴。段違いの長さは23尺。怪しい人物が隠れても反対側から容易に発見できるという治安維持の目的だったと考えられる。


⑲石部堂道標・・滋賀県守山市守山1丁目12-12

この石部道道標は守山宿の東端から枝分かれして、栗太郡葉山村や東海道へ向かう人々に対して案内したものでり、一面に「すぐいしべみち」、片面に「高野郷新善光寺道」と刻まれている。


帆柱観音・・滋賀県守山市吉身一丁目7-30

天台宗の無檀家寺で、人々から「帆柱観音さん」と親しまれてきた。本尊は十一面観世音菩薩立像。

最澄大師が桓武天皇の勅命で唐の国に留学、修行しての帰国途上、海難に遭遇した際、観世音菩薩が現れて風波が鎮まり、無事帰国できた。帰国後、大師は折れた船の帆柱で十一面観世音菩薩を彫り、水難をはじめ全ての交通安全の守り仏として安置されたのが起源とされている。

 

21. 背比べ地蔵
     ・・
滋賀県野洲市行畑1丁目1−21

大小の石仏は鎌倉時代のもので、中山道を行き交う旅人の道中を守ったと伝えられている。
当時は乳幼児が育ちにくかったこともあり、子を持つ親たちが「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、後は良く育つ」と背くらべさせるようになり、「背くらべ地蔵」と呼ばれるようになったと言われている。


22. 行事神社・・滋賀県野洲市行畑1丁目1−388

境内で珍しい勧請吊りが見られる。

勧請吊りは正月になると毎年新しい勧請縄に吊りかえ、村の一年間の安全と豊穣を祈願する。
中央には「トリクグラズ」という杉か蔓で出来た丸い輪をつけ、その左右には細縄に常緑樹を編みこんだ小勧請縄と呼ぶものを一年の月の数、平年は十二本(閏年は十三本)吊るす。

 

23. 朝鮮人街道(分岐点)・・滋賀県野洲市小篠原

織田信長は永禄11年(1568)の上洛以降、岐阜~京都間の往来で、佐和山や山崎山、安土、永原などを経由するルートを使っていた。
これは従来の主街道中山道とは異なり、織田家の南近江における主要な拠点を経由する軍用の道として信長によって整備されたものと考えられる。

1600年の関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は京への凱旋にこの下街道を通り、江戸に幕府を開いた後には家康・秀忠・家光三代の上洛用の道として使われ、沿道には伊庭・永原の御茶屋御殿も築かれた。
四代家綱以降は将軍の上洛も途絶えたが、引き続き朝鮮通信使の通行に利用されたため、「朝鮮人街道」という名で現在に伝わる。

 

24. 桜生(さくらばさま)古墳群・・滋賀県野洲市小篠原4番地1

「国史跡大岩山古墳群」のうち、6世紀を中心とする「甲山古墳」「円山古墳」「天王山古墳」の3古墳がある。とくに「円山古墳」と「甲山古墳」では、横穴式石室の内部に熊本県阿蘇から産出した凝灰岩をくり抜いた家形石棺や大阪府と奈良県の境に位置する二上山で産出する凝灰岩を用いた組合式石棺を見ることができる。

 

25. 本日のゴール
   ・・・
滋賀県野洲市小篠原4番地

本日は桜生古墳群横でウォーキング終了

2019.9.21   17:10



   
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