守山宿(第67番) ~ 武佐宿(第66番)

2019.10.18  10:20

本日のスタート地点
     
・・・滋賀県野洲市小篠原4番地

今回は桜生古墳群横からスタート


自然石の石仏

この地域には自然石の一部を彫り込んだ石仏が多くみられる



①篠原堤・・・滋賀県野洲市大篠原

この辺りは中山道沿いに大きい堤が見られ、その向こうには西池と名がついた池がある。源平盛衰記には元暦2年(11855月に壇ノ浦合戦で敗れ捕われた平宗盛・清宗父子が源義経に伴われ、京から鎌倉へ護送される途中、野洲川を渡河したのち、三上山を望みながら「篠原堤」を通過して「鏡宿」に投宿したと記録されていることからこの時代にすでにこの堤が存在していたと考えられる。


②平家終焉の地、蛙不鳴池と首洗い池、平宗盛公胴塚

                       ・・滋賀県野洲市大篠原

元暦2年(1185)3月、平家は壇ノ浦の戦いに敗れ、一門はことごとく入水。平家の総帥であった平宗盛とその子清宗は生け捕りにされ、源義経に連れられて鎌倉に下ったが、頼朝に追い返され再び京に向かった。その途中、義経は宗盛親子を討ち、この地に埋めて塚を建てたと伝わる。 そして京に持ち帰るために首を洗ったと言われる池は「首洗い池」と呼ばれるようになった。

現在街道沿いに残る池は首洗い池に繋っていた池で、この事件以降蛙が鳴かなくなったとの言い伝えから、蛙不鳴池(かわずなかずのいけ)と呼ばれるようになった。 首洗い池は最近までその形を留めていたが今は見られない。

   
   

<鏡の宿>

鏡の宿は東山道八十六駅の一つで、平安時代末期から大変栄えた宿場であったが中山道が整備されると宿場の指定から外され、間の宿となった。しかし本陣・脇本陣が置かれ、宿場の機能を果たしていた。


③源義経元服の池・・滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡


承安4年(1174)33日、源氏の御曹司牛若丸は京の鞍馬で遮那王と称してひそかに源氏の再興を志していた。鞍馬をこっそり抜け出した牛若丸は兄頼朝を尋ねんと、奥州の金売り吉次と陵助頼重を同伴して東下りの途中近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳」の屋敷に泊まった。その夜、稚児姿で見つかりやすいのを避けるために元服することを決意した。そこで地元の烏帽子屋五郎大夫に源氏の左折れの烏帽子を作らせ、鏡池の石清水を用いて前髪を落とし元服をしたと伝えられる。鏡神社より西側へ130mのところに池があり、これが義経の「元服池」とよばれている池で、義経はこの池の水を元服の時に使ったと伝わる。

 

④鏡神社と烏帽子掛けの松・・滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡1289

元服した牛若丸は自らが鳥帽子親となって名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)と名乗り、源氏の祖である新羅大明神(しらぎだいみょうじん)と同じ天日槍(あめのひぼこ)を祀るここ鏡神社へ参拝し、源氏の再興と武運長久を祈願した。(源氏は新羅系、平家は百済系と言われる)
鏡神社の参道には義経が参拝したときに松の枝に鳥帽子をかけたとされる鳥帽子掛けの松がある。

     

⑤鏡の宿本陣跡
   ・・
滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡

新羅三郎義光の後裔である林惣右衛門則之を元祖とする林家が務めた本陣。特に紀州侯の定宿であった。

文久2(1862)には皇女和宮も休憩している。


⑥源義経宿泊の館跡・・賀県蒲生郡竜王町大字鏡

承安433日に京都の鞍馬寺より奥州下向の途中、近江の「鏡の宿」(滋賀県竜王町)に着いた牛若丸一行は、当時の宿駅の長であった澤弥伝(さわやでん)の旅籠「白木屋」に宿泊した。

義経元服の際に使用した盥(たらい)が代々伝承されていた。

 

⑦水口道 道標
  ・・
滋賀県蒲生郡竜王町大字西横関

国道477号との交差点に立つ水口道道標

「是よりいせみち ミなくち道」と刻まれている。


⑧横関川渡し場跡・・滋賀県近江八幡市東横関町

歌川広重の「木曽街道六十九次・武佐」に描かれている横関川渡し場の跡。絵にあるように水量が少ない場合は杭を打って船を固定した舟橋としていた。

 


⑨馬渕一里塚跡
    ・・
滋賀県近江八幡市馬淵町

江戸から125里の一里塚跡。

現在は名残も残されていない
 


⑩八幡社高札場跡
     ・・賀県近江八幡市馬淵町

八幡社の前に高札場があった。

八幡社の祭神は応神天皇で、その始まりの正確な時期はわかっていない。
源義家が開いたとの説があり、またこの地の守護職で馬淵氏を称した佐々木広綱が当社を崇敬し社殿を建立したとも伝えられる。



⑪高野世継観音道標 ・・滋賀県近江八幡市馬淵町

寂室禅師が永源寺に住まわれた際、夜毎にお寺の東の峰から光明が放たれ、禅師がそこをお訪ねると、大きな石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像があった。禅師は「これはかつて海上で難をお救い下さった観音様に違いない」と深く感嘆し、中国から仏師をお招きし、かつて修行した中国の土で観音像を作らせ、その像の額の宝冠の中に、件の小さな霊像を納めて御本尊とされた。後に近江守護職佐々木氏頼公の子、満高公が跡取りに恵まれず、この観音に毎夜一心に祈願をされたところ、夢にお告げがあり、やがて世継を授かった。以後誰が言うともなく「世継観世音」と呼び讃えられるようになった・・と伝わる。

道標には「高野世継観音道」と刻まれている。永源寺はこの道標から東に20kmほどの地にある。

 


⑫住蓮房首洗い池
    ・・
滋賀県近江八幡市千僧供町

法然上人の二人の弟子、安楽坊、住蓮坊が行っていた「六時礼賛」という念仏会に後鳥羽上皇の二人の侍女が参加し、二人の弟子はこの侍女を剃髪、出家得度させた。これを知った上皇は安楽坊を六条の河原で、住蓮坊をここ馬渕村で処刑した。その際に住蓮坊の首をこの池で洗ったと伝わる。



<武佐宿>

武佐宿は近江八幡と東海道桑名を結ぶ八風街道と中山道の交差点にあり、多くの近江商人が行き交った宿場町であった。 その規模は、宿長さ東西8町24間、人口537人、家数183軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠23軒であった。



⑬武佐宿 高札場跡
・・滋賀県近江八幡市
          長光寺町

武佐宿の西の高札場があった。横には自然石の石仏と常夜灯がある。



⑭松平周防守陣屋跡
     ・・
滋賀県近江八幡市長光寺町


武佐は松平周防家が藩主であった武蔵国川越藩の飛び領地であったことから、この地に陣屋を置き領土の管理を行っていた。



⑮八風街道 道標・・滋賀県近江八幡市武佐町


鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢に至る八風街道は近江商人が伊勢に出る重要な通称交通路であった。道標には「いせ みな口 ひの 八日市 道」と刻まれている。


⑯武佐宿本陣跡
     ・・
滋賀県近江八幡市武佐町


下川七左衛門家が務めた本陣。
当時の本陣門が現存する。


⑰商家 大橋家
    
・・滋賀県近江八幡市武佐町

大橋家は、米や油などを売っていた商家で、武佐宿場の伝馬・人足取り締まり役人も勤めていた。

建物は切妻造り桟瓦葦平入で武佐宿で現存する最古のものである。


本日のゴール(八坂神社)
     
・・滋賀県近江八幡市友定町


本日はここでウォーキング終了


2019.10.18   16:10



   
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