武佐宿(第66番) ~ 愛知川宿(第65番)

2019.11.15  10:35

<本日のスタート地点>

本日は武佐宿の八坂神社からスタート


①武佐宿脇本陣跡
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滋賀県近江八幡市武佐町

長享元年(1487)近江源氏の主流である佐々木一族が金剛寺城を築城後、一族の家人である谷家が御殿屋敷と言われる「谷殿館」を造った。その後江戸時代に奥村三郎左衛門が受け継ぎ脇本陣を勤めた。


②牟佐神社 ・・滋賀県近江八幡市武佐町651

創立年代は不詳であるが平安時代から祀られてきた武佐宿の氏神社。祭神には八重事代主命を祀り、商売繁盛の神として市神大明神とも呼ばれる。


 ③武佐宿大門跡
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滋賀県近江八幡市武佐町

武佐宿の東の入口。

大門は宿場の入口に設けられ、人々の出入りを監視した。

④西生来一里塚跡
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滋賀県近江八幡市西生来町

江戸日本橋から124里目の一里塚。


⑤泡子延命地蔵尊御遺跡と地蔵堂・・滋賀県近江八幡市西生来町

この地の茶店を訪れた僧に恋をした茶屋の娘が僧の残した茶を飲んだところたちまち懐妊し男児を出産した。3年後に再び訪れた僧が息を吹きかけると男児は泡となって消えてしまったと伝わる。

近くの西福寺に、その子が祀られた地蔵菩薩が安置されている。

   

⑥奥石(おいそ)神社・・滋賀県近江八幡市安土町東老蘇(おいそ)

奥石神社は延喜式内社で御祭神として天児屋根命(あめのこやねのみこと) をお祀りしている。伝説では、日本武尊を危機から救うために妃の弟橘姫命が身代わりになって荒海に身を投げたが、そのとき懐妊していた妃は、波間に消える前に自分は老蘇の森に留まって女人安産を守ると言い残したと言われる。この話から奥石神社は安産の神として広く信仰されている。

本殿は天正9年(1581)織田信長が家臣柴田家久に命じて造営させたもので 国指定重要文化財。三間社流造で、桧皮葺の豪華の中に優美な落ち着きを持った建造物である。


⑦根来陣屋跡(奥石神社境内)
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賀県近江八幡市安土町東老蘇

根来陣屋は元禄11年に根来正縄によって築かれた。 初代盛重は和泉熊取の中氏の出身で根来寺成真院の院主であったが、後に還俗して徳川家康に仕え3450石を領する旗本となり和泉代官を務めていた。3代正縄が関東の所領を近江に移し、以後根来氏が代々この地を領した。


⑧清水山(北箕作山:きたみつくりやま)
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滋賀県東近江市五個荘山本町

この山の上に箕作城があった。応仁の乱の後、六角高頼に対抗するため幕府が送り込んだ佐々木政尭が清水城を築いて籠城したといい、これが箕作城の前身と云われる。 

永禄11(1568)織田信長が六角氏の観音寺城を攻めたとき、六角氏は箕作山城に建部源八郎と吉田出雲を入れて守りを固めた。しかし、佐久間盛信や木下藤吉郎などが攻めかかって城は落城、六角父子は夜陰に紛れて甲賀へ逃れたと伝わる


⑨繖山(きぬがさやま)の観音正寺と観音寺城
  ・・滋賀県近江八幡市安土町石寺

 観音正寺は聖徳太子が推古13(605)に堂を建立し、観音像を祀ったのが創始とされている。戦国の世になり佐々木氏が山上に城を築いたが、巡礼にまじって間者が山上に入ってくるのを嫌って寺を山麓に移転させたと言われている。織田信長の兵火によって寺は焼失し、その後、慶長2(1597)に再び山上に上がり教林坊の宗徳法橋が本堂を建立し、再興したとされている。

観音寺城は中世の近江源氏佐々木氏、後に近江守護の六角氏の居城。永禄11年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、913日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。


中山道は清水山(右側)繖山(左側)の間を抜けて愛知川宿に至る。


⑩清水鼻の名水
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滋賀県東近江市五個荘清水鼻町242

「醒井の水」「十王村の水」と並んで湖東三名水の一つに数えられる「清水鼻の名水」は古くから中山道の名水として旅人たちの喉を潤してきた。

⑪松並木
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賀県東近江市五個荘石塚町

この辺りには松並木が残る。


⑫石塚一里塚跡
   ・・滋賀県東近江市五個荘石塚町

江戸日本橋から123里目の一里塚であり、五個荘の西の入口に位置する。

 

⑬片山半兵衛家
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滋賀県東近江市五個荘山本町


片山家は武佐宿と愛知川宿の中間に位置し、小休所として大名家などに利用された。


⑭常夜灯 道標
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滋賀県東近江市五個荘新堂町


伊勢方面への道との分岐点にあある常夜灯で、天保15(1844)の建立。

「右京みち」「左いせ ひの 八日市みち」と刻まれている。


⑮西澤家・・滋賀県東近江市五個荘三俣町273

西澤梵鐘鋳造所は、九代、約三百年にわたり、代々鋳造を家業とし、伝来の技法を受け継ぎ、厳選された資材と堅牢で緻密な型とを用いて、精魂込めて各種梵鐘・喚鐘・鰐口・双盤などを鋳造してきた。

ここで作られた梵鐘は、この地域のみならず全国の著名な寺院に納められている。


⑯御代参街道追分道標
  ・・滋賀県東近江市五個荘小幡町
61

御代参街道は、ここで中山道から分岐し、日野、八日市を経て東海道土山宿までを結ぶ脇往還である。江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、帰路土山宿から多賀大社へこの道が利用されたことから「御代参街道」と呼ばれるようになった。

「 右京みち」、「左いせひの八日市みち」と 刻まれている。


⑰東嶺禅師誕生の地碑
   ・・滋賀県東近江市五個荘中町

東嶺(とうれい)は享保6年(1721)近江国(滋賀県)神崎郡小幡の薬種商,中村善右衛門の嫡子として生まれ、享保14年(17929歳のとき近江能登川大徳寺の亮山恵林につき出家した。その後、近世臨済禅中興の祖と言われる白隠慧鶴(1686-1769)の高足の一人となる。三島の龍澤寺、尾張の瑞泉寺を経た後、郷里の齢仙寺に入った。


⑱睨み灯篭

 南岸の灯篭()・・東近江市五個荘中町

 北岸の灯篭()・・愛知郡愛荘町愛知川

愛知川に架けられた「むちん橋」の両岸に文政8年(1825)に大神宮常夜灯が建てられた。互いに睨み合うような姿から「睨み灯篭」と呼ばれていた。

弘化3年(1846)頃に建て替えられた。


⑲「むちん橋」が架けられていた愛知川

天保時代の初期、彦根藩は増水時の「川止め」で川が渡れなくなるのを解消するため、この地の豪商である藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ橋を架けることを命じた。当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちん橋」と呼ばれた。


⑳祇園神社
  ・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川

祇園神社は元は牛頭天王社と言われ、愛知川宿に鎮座していた。愛知川の水難事故を減らすために架けられた「むちん橋」の守護神として天保9年(1837)この地に遷座した神社である。


21.愛知川一里塚跡
    ・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川

江戸日本橋から122里目の一里塚で、愛知川宿京口近くにあった。


<愛知川宿>

愛知川宿は江戸日本橋から65番目の宿場。

東山道時代からの宿駅でり、隣の高宮宿と同様に近江上布を扱う近江商人によって栄えた宿場で宿場先の五個荘は近江商人発祥の地と言われている。

宿場の規模は長さ534(607m)、人口929人、家数199軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒であった。


22不飲橋(のまずばし)
    
・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川


不飲川(のまずがわ)に架かる橋。
水源としている不飲池で平将門の首を洗ったところ、血で濁り飲めなくなったと伝わる。


23旧旅籠竹の子屋
   ・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川
1608


現在、竹平楼として営んでいる料理旅館は、宝暦8年(1758)創業の「竹の子屋」が前身で260年の歴史を持つ。

明治時代には明治天皇巡幸の際に大隈重信、井上馨、山岡鉄舟らと共に立寄られた。


24問屋跡・高札場跡
     ・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川


25一文字葺き

下端が奇麗に一直線に揃う「一文字瓦」で葺いた軒を「一文字葺き」「一文字軒」と呼び、格式の高い建物に用いられる。この地域では多く見られる。

   

<本日のゴール>


愛知川宿本陣跡・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川

本日のウォーキングはここで終了


2019.11.15  16:00



   
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