2019.12.20 10:15
<本日のスタート地点>
愛知川宿本陣跡・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川
愛知川宿内の中山道
・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川 近辺
広重の浮世絵「木曽街道六拾九次 恵智川」
・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川 1504
慶應元年(1865)の創業以来続いているお菓子司
②愛知川宿北入口
・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川
愛知川宿の江戸側の入口を示すもの
③郡分(こおりわけ)延命地蔵尊 ・・滋賀県愛知郡愛荘町愛知川
地蔵堂脇に30数体の石地蔵や道祖神が祀られている。
郡分は愛知郡と神崎郡の境になることが語源。
④豊満神社への道標
・・滋賀県愛知郡愛荘町沓掛
ここ三叉路で中山道から南に入ると豊満神社に至ることを知らせる道標。
⑤平将門の首塚 ・・滋賀県愛知郡愛荘町石橋668
普門寺の境内の塚の上に平将門の首塚と言われる祠(ほこら)がある。塚は古墳時代に築造されたもので山塚古墳と呼ばれている。 昭和48年に発刊された『日本の首塚』には愛知郡千枝村の将門首塚伝説として「空をとんできた首が落下したので祀ってやった。ところが後で塚からぬけ出して宇留川を流れ、里人にひろわれて平流山上に葬られた。この山塚に祈ると武器類を貸してくれたと伝えている」と記されている。
⑥歌詰橋・・滋賀県愛知郡愛荘町
平将門の乱を鎮めた藤原秀郷が、将門の首を京に運ぶ途中、ここで首が目を開き秀郷に襲い掛かってきた。秀郷はとっさに「歌を詠んで欲しい」と頼むと首は言葉に詰まって地面に落ちたという。 下を流れる川は水量が豊富であったため、舟運が盛んだったことから「運槽川」と呼ばれていたが、中世になって「うそ川」と訛ったとのこと。
⑦江州音頭発祥の地碑・・滋賀県犬上郡豊郷町大字下枝
江州音頭(ごうしゅうおんど)は滋賀県を中心に近畿地方各地で盆踊りに用いられる音頭。
天正14年(1586)千樹寺落慶法要の際、時の住職がお経に音頭の節をつけて唄ったのが始まりと伝わる。
ただし同じく滋賀県の東近江市八日市松尾町にも発祥の地の碑があり、どちらが真の発祥の地かは定かでない。
⑧伊藤忠兵衛記念館 ・・犬上郡豊郷町大字八目128−1
伊藤忠商事の創始者である初代伊藤忠兵衛が暮らし、2代目忠兵衛が生まれた邸宅。
初代伊藤忠兵衛は1858年に麻布(あさぬの)の行商を開始し、これが伊藤忠商事の起源である。
⑨伊藤長兵衛屋敷跡 ・・滋賀県犬上郡豊郷町大字八目
伊藤長兵衛は幼名を若林長次郎といい、22歳で初代伊藤忠兵衛の兄、伊藤長兵衛の養子になり、7代目長兵衛を襲名し、大正10年に現在の丸紅株式会社に繋がる丸紅商店を設立した。
⑩石畑一里塚跡・・滋賀県犬上郡豊郷町大字石畑437
江戸から121里目の一里塚
現在はこの地に塚が再現されているが江戸時代の一里塚は300mほど京側の現在の豊郷町役場の位置に設けられていた。(一里塚跡の碑は豊郷町大字下枝56の位置にも設置されている)
⑪石畑立場址 ・・滋賀県犬上郡豊郷町大字石畑497
人馬の中継、人足、籠かき等の休憩場所である立場がこの地にあった。ここのは茶屋もあったことから立場茶屋と呼ばれた。
⑫若宮八幡宮産の宮 ・・滋賀県彦根市西葛籠町474
南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子、義詮が文和4年(1355)に後光厳天皇を奉して西江州に戦い、大垣を平定した後、翌5年に京都に帰ることになった。その時義詮に同行した妻妾がここで男児を出産した。付人として家臣九名が残ったが、君子は幼くして亡くなった。生母は悲しみのあまり尼になり、この地に一庵(松寺)を結んで幼君の後生を弔った。家臣九名はこの地に土着し、松寺の北方に一社を祀り、それが「産の宮」と呼ばれた。
近辺の旧中山道・・滋賀県彦根市葛籠町
松並木が見られる。ただし松は比較的新しく植えられたものと思われる。
⑬葛籠 一里塚跡・・滋賀県彦根市法士町
江戸から120里目の一里塚跡
無残にも一里塚跡を示す石柱が破損して横たわっている。
⑭無賃橋、むちん橋地蔵尊・・滋賀県彦根市高宮町
天保2年(1832)、彦根藩は増水時の「川止め」で川が渡れなくなるのを解消するため、この地の豪商である藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門らに費用を広く一般の人々から募らせ橋を架けることを命じた。当時、川渡しや仮橋が有料であったのに対し、この橋は渡り賃をとらなかったことから「むちん橋」と呼ばれた。
昭和52(1977)年、改修工事が行われた無賃橋の脚下から2体の地蔵尊が発掘された。昔は大きな土木工事の時には人柱を埋める習慣があった。この地蔵尊がそんな人柱の代わりに橋を守るために埋められた守り神だったと考えた近隣の人々によってその地蔵尊を祀るお堂が建立された。それが“むちん橋地蔵尊”である。
⑮円照寺・・滋賀県彦根市高宮町2226−1
明應7年(1498年)、高宮氏の重臣北川九兵衛が剃度して釈明道となり、仏堂を建立したのが起源である。 元文5年(1740年)には火災で本堂は焼失したが、9年の歳月を費やし再建された。 境内には、明治天皇ゆかりの「止鑾松(しらんのまつ)」と呼ばれる松の木(二代目)や老紅梅の垣のなかに徳川家康が腰掛けたとされる「家康腰懸石」がある
<高宮宿>
江戸から64番目の宿場町。
高宮上布の集散地として賑わった高宮宿。高宮上布とは、高宮宿の周辺で生産された麻布によって織られる上質の麻織物で、彦根藩から将軍家に献上されるなどして全国的に有名であった。宿場内には高宮布を扱う商家が多くあり、また商売上手の近江商人によって他国へ売りさばかれ、高宮宿は豊かな経済力を誇っていた。
宿の規模は本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠23軒、戸数830戸、人口3560人であり中山道では本庄宿に次ぐ第2の規模であった。
⑯高宮宿本陣跡 ・・滋賀県彦根市高宮町2231
小林家が務めていた本陣で、現在は門のみが残っている。 当時は敷地48坪、建坪120坪、間口27mであり、構造は武家屋敷風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の間・奥書院・上段の間と連続した間取であった。
⑰塩谷脇本陣跡 ・・滋賀県彦根市高宮町
高宮宿にあった2軒の脇本陣の1軒であり塩谷家が務めた。
⑱芭蕉の紙子塚・・滋賀県彦根市高宮町1982
貞享元年(1684)、俳人松尾芭蕉が小林家に宿泊した際、主人の忠淳は旅人が芭蕉とは知らず、一夜を語り合い、その際芭蕉は「たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子」の句を主人に渡し床に就いた。翌日、芭蕉と知った主人は新しい紙子羽織を芭蕉に贈り、古い羽織をいただいて庭の一角に埋めて「紙子塚」とした。
⑲高宮宿の商家
高宮上布の商いで栄えた高宮宿には昔の商家の面影を残す建物や蔵などが多くみられる。
⑳多賀大社一之鳥居、御神燈、常夜燈・・滋賀県彦根市高宮町
ここは東に向かう多賀大社への参道の起点であり、石造りの大きい鳥居がある。寛永12年(1635)に建立されたもの。
参道の両側には参拝者の道案内のために1丁(109m)毎に御神燈が建てられていた。 また鳥居の横には高さ6mの大きい常夜燈があり、灯明を灯すための階段が付けられている
21. 商家布惣跡(しょうかふそうあと) ・・滋賀県彦根市高宮町1121
高宮宿の周辺で生産された麻織物は室町時代から貴族や上流階級の贈答品として珍重され、「高宮嶋」や「高宮上布」と呼ばれていた。
この高宮嶋を商っていた商家布惣加藤家の現存する主屋が現在は喫茶・ギャラリーとして使われている。
22. 高宮神社・・滋賀県彦根市高宮町1876
創立祀代は不詳であるが、社伝によると、鎌倉末期といわれている。寛政年中の「中山道分間延絵図」には「山王」と記載されており、また『近江輿地志略』には「山王権現社、同所にあり祭神日吉大比叡神、祭禮毎年三月十日」と記されている。現在の本殿は延宝6年(1678)の建立。境内には垂加・恵比寿・瑞穂の三神社が祀られている。
<本日のゴール>
高宮町大北交差点付近 ・・・滋賀県彦根市高宮町1551
2019.12.20 15:28