高宮宿(第64番) ~ 番場宿(第62番)

2020.2.21  9:50

<本日のスタート地点>


高宮町大北交差点付近
  ・・・滋賀県彦根市高宮町


①木之本分身地蔵菩薩
   ・・・滋賀県彦根市高宮町

お地蔵さんは石造りが一般的であるがこの大北地蔵は珍しく木彫りに彩色されたものである。側に「木之本分身地蔵菩薩」と書かれた石柱があり、長浜市木之元本町にある眼病のご利益で名高い木之本地蔵の分身と言われている。


②高宮宿東見附常夜灯

     ・・滋賀県彦根市高宮町

慶応3(1867)建立の多賀大社常夜灯。

ここに高宮宿東見附が置かれていた。


③彦根道への追分道標

     ・・・滋賀県彦根市大堀町

彦根城方面へ繋がる彦根道との分岐点に立つ道標

「すぐ 中山道

 左  彦根道」

と書かれている

   (「すぐ」はまっすぐの意味)


④石清水(いわしみず)神社
    ・・滋賀県彦根市大堀町
749

祭神は、第16代応神天皇とその母、神功皇后(息長帯姫命)である。石段を登った亀甲山の山腹に鎮座する岩清水神社は、古く飛鳥時代からこの地にお祀りしている神社で、武勲守護の神、また安産の神として参拝、祈願する人が絶えない。祭神の神功皇后は、応神天皇を胎内に宿しながら三韓との戦いに出陣、肥前国(佐賀、長崎県)松浦で無事安産されたといういわれから安産祈願「鈴の緒」を拝受する人が多い。


⑤「かどや」跡地と井戸

  ・・滋賀県彦根市大堀町

石清水神社の前におよそ200年前に建てられた「かどや」という休み処があった。内部は幾組もの客が休憩できるように多くの小部屋に分かれていた。井戸は岩を掘り下げて岩の間から水が湧き出る、文字通り”石清水”であった。

江戸時代の旅人たちが、この石清水で沸かしたお茶でのどを潤した。


⑥「是より多賀みち」道標

  ・・滋賀県彦根市大堀町


多賀大社に繋がる道との分岐点


大堀山(鳥籠山)と芹川(不知哉川)

  ・・・滋賀県彦根市正法寺町559−7

旧中山道を鳥居本から西に進み、大堀町に入ると芹川の手前にこんもりとお椀を伏せたような大堀山がある。この山が壬申の乱の戦場となった「鳥籠山(とこのやま)ではないかと言われている。(写真は大堀山の麓と芹川)
万葉集では

「淡海路の 鳥籠(とこ)の山なる不知哉川(いさやがわ)  ()のこのごろは恋ひつつもあらむ」

「犬上の 鳥籠(とこ)の山なる不知哉川  いさとを聞こせ 我が名を告ぐらすな」

と詠まれている。
鳥籠の山とセットで詠まれるので、不知哉川は芹川であるとする説が有力とのこと。


⑧矢除地蔵尊・・滋賀県彦根市地蔵町541

 西暦570年、第30代・敏達天皇のころ、仏教伝来に反対する物部守屋と争った聖徳太子は、難を逃れてこの地に隠れていた。守屋の軍勢が太子を見つけ矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が現れた。あとになって松の根方に小さな地蔵さんが右肩に矢を射こまれて血が流れた跡があった。世人はこれを尊び、お堂を建て、往来の安全を願った・・とのこと。


⑨原村一里塚跡
   ・・
滋賀県彦根市原町


江戸日本橋から119里目、京都三条大橋から16里目の一里塚がこの辺りにあった。


小野小町塚・・滋賀県彦根市小野町

小野小町の父親とされる小野美実(好美)が都から出羽国(現在の秋田県、山形県)へ赴任する途中に小野宿(滋賀県彦根市)で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かったため、養女として迎えて出羽国へ連れて行った。この養女が成長し小野小町となったとされる。

当地には15世紀後半に自然石に正面、両側に阿弥陀如来坐像を彫り込んだ小町地蔵が建立され小町塚として信仰されてきた。


佐和山城址・・滋賀県彦根市古沢町

佐和山城は石田三成の居城として知られており、「治部少に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われたほどの名城。「関ケ原の戦い」後には徳川四天王のひとりである井伊直政が入城したが、新たに彦根城を築いたため廃城となった。佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたものの他は徹底的に破壊されたため、城址にはほとんど何も残っていないが石垣や土塁など一部が現存している。


<鳥居本宿>

中山道鳥居本宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて六十三番目の宿場町。徳川家康が慶長7年(1602)中山道を整備した時は一旦小野宿に宿継を命じていた。その後彦根築城による中山道への脇街道のルートから鳥居本に宿が移された。
天保年間の宿村大概帳によると、鳥居本宿の長さは小野村境から下矢倉村まで13町(約1.4km)と記されている。本陣1、脇本陣2、問屋場1、総人口1,448人、家数は293軒で、そのうち旅籠屋が大小合わせて35軒あった。
鳥居本の名産としては3つの赤が上げられる。赤い丸薬の神教丸、赤い渋紙の合羽と赤いスイカ。


⑫彦根道追分道標・・・滋賀県彦根市鳥居本町

中山道と彦根道の分岐点に立つ道標。

「右 彦根道」「左 中山道京いせ」と刻まれる。

彦根道は2代彦根藩主 井伊直孝の時代に中山道と城下町を結ぶ脇街道として整備された。朝鮮通信使が通ったことから朝鮮人街道とも呼ばれた。


⑬専宗寺・・・滋賀県彦根市鳥居本町1725

専宗寺は聖徳太子開祖と伝わる。かつては佐和山城下町本町筋にあり、泉山泉寺と号していたが、寛永17年(1640)に洞泉山専宗寺と改め、ここ西法寺村に移ってきた。本堂などの建立年代は18世紀後半と推定されてる。山門の右隣の二階建の太鼓門の天井は佐和山城の遺構と伝わる。

   

⑭合羽所 松屋 ・・滋賀県彦根市鳥居本町

鳥居本宿で合羽製造が始まったのは、享保5年(1720)馬場弥五郎の創業であると伝わる。若くして大坂に奉公にでた弥五郎は、当時、需要に追いついていない合羽製造の改革を決意し、奉公先の坂田屋の屋号を譲り受けて鳥居本宿で開業し、菜種油を使用していた合羽製造に新しく柿渋を用いることを奨励し、一躍鳥居本宿で雨具の名声が高まった。柿渋は、保温性と防水防湿性に富み、雨の多い木曽路に向かう旅人は、こぞって鳥居本宿場で雨具としての合羽を求めるようになった。
 鳥居本合羽が赤いのは、柿渋を塗布するときに紅殻を入れたことによるとされる。江戸時代より雨具として重宝された渋紙や合羽も戦後のビニールやナイロンの出現ですっかりその座を明け渡すこととなり、今では看板のみが産地の歴史を伝えている。


⑮鳥居本宿 脇本陣・問屋跡
    
 ・・滋賀県彦根市鳥居本町

鳥居本宿にあった2軒の脇本陣の内の1軒。

また人馬継立を行う問屋場もここにあった。


 ⑯彦根城 ・・滋賀県彦根市金亀町

中山道から少し離れるが、徳川四天王のひとりである井伊直政の子、直継によって築かれたのがこの彦根城。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城として用いられた。幕末に起きた「桜田門外の変」で暗殺された大老、井伊直弼は藩主となるまでをこの城下で過ごしており、当時の屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」としていまも現存している。

  埋木舎 

 ⑰鳥居本宿本陣跡・・・滋賀県彦根市鳥居本町

鳥居本宿の本陣を代々務めた寺村家は観音寺城六角氏の配下であったが六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めた。

佐和山城落城後に小野宿は廃止され慶長8(1603)鳥居本に宿場が移るとともに鳥居本宿本陣役となった。本陣屋敷は合計201畳の広さであった。
倉庫の扉は本陣の門を移築したもの。

   

⑱合羽所 木綿屋
   ・・・
滋賀県彦根市鳥居本町

前述の松屋と同じく鳥居本宿にあった十五軒の合羽所の内の一つ。

大名家や寺院、商家を得意先として大八車等に被せるシート状の合羽を主に製造していた。現在も合羽に刷り込まれていた様々な型紙が保存されている。


鳥居本宿内の旧中山道

  ・・・滋賀県彦根市鳥居本町


⑲旅館米屋跡 ・・・滋賀県彦根市鳥居本町

江戸時代「米屋」の屋号の旅籠を営む岩根治右衛門は、若い頃より井伊直弼の絵の師匠である画家の中島安泰に学び、直弼から自分に自然であるようにと「自然斎」の号を賜り、絵付師として精進した。安政3(1856)には普請方の許可を得て民間の湖東焼の絵付けを行っていたという。


 ⑳赤玉神教丸 有川家 ・・・滋賀県彦根市鳥居本町425

赤玉神教丸本舗、有川家は300年以上の歴史を誇り、創業は元治元年(1658)と伝わる。神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、「お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」とうたわれた多賀神社の神教によって調製したことが始まり。このことから「神教丸」という名がついた。
有川家の先祖は磯野丹波守に仕えた郷士で、鳥居本に居を構えた頃は鵜川氏を名乗っていたが、有栖川宮家への出入りを許されたことが縁で、有川の姓になったと言われている。

現在の建物は宝暦年間(17511764)に建てられたもので国指定重要文化財になっている。


21. 北國道との追分道標
     ・・・滋賀県彦根市下矢倉町

 「右 中山道 摺針 番場」

 「左 北國 米原 きの本 道」

と書かれている。

(比較的新しいため、復元されたものと思われる)


 22. 摺針峠 ・・・滋賀県彦根市下中山町

 鳥居本側からは約700mの距離で70mほどの標高差を登る峠道。摺針峠の名は、その昔弘法大使がこの峠を訪れた時、一本の針にするために石で斧を磨く老婆に出会い、自分の修行の未熟さを恥じて修行に励んだとの言い伝えによるもの。

 坂道を登り、この峠から振り返ると琵琶湖や湖東平野の素晴らしい眺めが広がる。


 23. 望湖堂・・・滋賀県彦根市下中山町

 峠にはかつて望湖堂という茶店があり、「するはり餅」という名物に人気が集まったといわれる。茶店とはいえ本陣を思わすような構えの建物で大いに繁栄したが、鳥居本宿や番場宿からは寛政7年(1795)に本陣紛いの営業を慎むようにとの抗議がでたほど。朝鮮通信使の一行が、江戸への行き帰りに立ち寄ったことを記す文書や扁額など貴重な資料が多く残っていたが、惜しくも平成3年の火災で建物とともに消失した。


24. 磨針一里塚跡
     ・・・
滋賀県彦根市下中山町

江戸日本橋から118里目、京都三条大橋から17里目の一里塚跡

25. 泰平水地蔵堂
     ・・
滋賀県彦根市中山町

山肌からの湧水は「泰平水」と呼ばれ、旅人たちの喉を潤した。地蔵堂には旅人がここまでの道中の無事の感謝と、これからの安全を願った地蔵菩薩が祀られている。


伊吹山の眺望
    ・・滋賀県米原市番場

摺針峠から東に降りきったところで遠く伊吹山が見えてくる。

右は現在の名神高速道路。


26. 鎌刃城跡  ・・滋賀県米原市番場

鎌刃城は中山道・番場宿の南東の山上に位置し、古くから国人領主により整備されていた中世の山城。戦国期には北の浅井氏と南の六角氏の「境目の城」として攻防の地となった。城主の堀氏は浅井長政に臣従しながらも織田信長に内通したことが露見したため、長政に攻められ落城。「姉川の合戦」後には織田家の領地となり、堀氏は城主に返り咲いたが、すぐに廃城となった。現在も石垣、堀切、曲輪などが残っている。


<番場宿>

中山道の江戸から数えて62番目の宿場。

番場宿鎌倉時代から東山道の宿場としての役割を果たしていた。江戸時代の慶長16年(1611年)、番場宿から米原までの切通しと米原港が開設され、中山道から湖上の水運に乗り換えて京都へ結ぶ道への分岐点となった。

宿場の規模は、本陣1軒、脇本陣1軒、問屋場6軒、旅籠10軒。町並の長さは110(127m)と中山道の宿場では最短であった。


広重の風景  ・・滋賀県米原市番場

遠くの山並が歌川広重の浮世絵「木曾街道六拾九次 番場」の風景に一致する。この辺りで描かれたものと思われる。

   

27. 直孝神社 ・・滋賀県米原市番場2112

直孝神社は寛永2(1625)、彦根藩2代目藩主で江戸時代前期の猛将として知られ、徳川家康にも認められて江戸幕府の中枢を担う人物となった井伊直孝公を祭神として勧請されたと伝わる。かつては「溝尻神社」という名であったが、昭和49年に「直孝神社」と改名された。


28. 蓮華寺 ・・滋賀県米原市番場511

蓮華寺の創建は推古天皇23(615)、聖徳太子の開基とされ、当初の寺名は法隆寺だったと伝わる。

南北朝時代、足利尊氏の寝返りにあった北条仲時以下432人が鎌倉へ落ち延びる途中、京極道誉に阻まれて進退極まって自刃。流れ出た鮮血で、辺りは川と化したという。仲時28歳ほか、6歳の子供から60歳の高齢者に至るまでの名を記した過去帳は、国の重要文化財に指定され、寺の裏には彼らの墓が寄りそうように並んでいる。

また長谷川伸の小説「瞼の母」の舞台として知られ、番場の忠太郎の故郷として、境内に忠太郎地蔵尊が立てられている。

<本日のゴール> ・・滋賀県米原市番場511

本日はここ蓮華寺がゴール

2020.2.21  16:26



   
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