番場宿(第62番) ~ 今須宿(第59番)

2023.11.18  9:50

<本日のスタート地点>

蓮華寺・・滋賀県米原市番場511

(参拝・見学は先回行ったため今回はパス)

   

①番場宿問屋場跡 ・・滋賀県米原市番場667 他

番場宿は近隣からの物資を集め、米原湊へ運ぶための集積所の役目を担ったため、6軒と多くの問屋場があった。

   

③壬申の乱・横河の古戦場跡

  ・・・滋賀県米原市醒井664

 壬申の乱は、天智天皇の死後、長子の大友皇子を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた皇弟の大海人皇子(後の天武天皇)が、皇位の継承をめぐり、壬申の年(672年)に起こした、わが国の歴史上最大の内乱。大海人皇子の本隊と大友皇子軍の本隊が、初めて息長横河で激突、激戦の末、大友皇子軍が敗れた古戦場跡


<醒ヶ井宿> ・・・滋賀県米原市醒井

 醒ヶ井宿は、中山道六十九次のうち江戸から数えて六十一番目の宿場町。

醒井の地名の由来ともなった「居醒の清水」を源流とした地蔵川の流れに沿って、今も風情ある町なみが続いている。宿場内には居醒の清水の他、十王水、西行水等の湧水源があり、昔から三水四石の名所として知られていた。

 当時の宿の長さは東西8町2間(876m)、人口539人、家数138軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒の規模であった。


④加茂神社と居醒の清水  ・・・滋賀県米原市醒井58

 加茂神社は米原市醒井に鎮座する神社。神社の前には醒井の湧き水「居醒の清水」がいつもコンコンと湧き出ている。この水は古くは、「古事記」や「日本書紀」 にも登場し、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が伊吹山の神との戦いに敗れ、醒井の地で湧き水により一命を取り留めたという伝承が残っている。

  居醒の清水

⑤西行水・・・滋賀県米原市醒井235

  十王水・・・滋賀県米原市醒井219

それぞれ醒ヶ井の代表的な湧水。

西行水は古来より西行法師に纏わる伝説が残る湧き水。

十王水は平安時代に水源が開かれた名水ですぐ前に梅花藻が見られる。

西行水 十王水

⑥梅花藻(バイカモ)

 醒ヶ井の地蔵川に多く見られる梅花藻。水温年間約14度前後の川の水底に群生し、水流中に沈生し、流れに沿って這うように育つキンポウゲ科の多年生草木植物で、長さは約50センチほどになる。初夏から晩夏にかけて梅花のような白い花を咲かせる。

訪れたのは11月であったが気温の高い日が続いたせいか、まだ花が見られた。

 

⑦ハリヨ

地蔵川に生息するハリヨは絶滅が危惧されているトゲウオ科イトヨ属、体長47cmの魚。国内の生息地は岐阜県南西部と滋賀県北東部の2ヵ所のみ。

夏でも20°を超えない冷たい水と繁殖に必要な梅花藻などの水草が適度に生育し、水底が泥や砂である小水域に生息する。

右の写真は水槽で飼われているものを撮影。


⑧問屋場跡・・・滋賀県米原市醒井123

醒ヶ井宿に7軒あった問屋場の一つで、問屋を営んでいた川口家の住宅。今は醒ヶ井宿資料館として公開されている。

 

⑨醒井延命地蔵尊・・・滋賀県米原市醒井

 弘仁8年(817)100日を超えて干ばつが続いた際、嵯峨天皇の命により伝教大師(最澄)が比叡山で降雨を祈ったところ、薬師如来が現れ「東へ数十里の清浄な泉で雨を求めよ」とのお告げがあった。大師がここ醒井の里を訪れると白髪の老翁が現れ、「ここに地蔵尊を安置せよ」と言い消えてしまった。大師は地蔵尊を刻み祈念したところ三日間雨が降り続いた・・・と伝わる。


⑩佛心水・・・滋賀県米原市一色

 井戸の中に「仏心水」という字が彫られている。これは旅人の喉を潤すだけでなく,御仏の慈悲のもとで旅の安全を祈願したような意味があると考えられている。

 

⑪一色一里塚跡

・・・滋賀県米原市一色

京都三条大橋から19里目、江戸日本橋から116里目の一里塚。

左右に榎が3本づつ植えられていた。


⑫当時雰囲気が残る東山道の古道(旧中山道)

  ・・・滋賀県米原市柏原


⑬北畠具行卿墓 ・・・滋賀県米原市 柏原

元弘の変(1331)で失脚した北畠具行の墓。後醍醐天皇に仕えた具行は鎌倉幕府打倒の謀議に度々加わり、幕府方に捕らえられ、鎌倉に護送される身となった。しかし護送の途中、その人となりを惜しんだ京極道誉は清滝寺に彼を留め、1ヶ月余りにわたって幕府に具行の命乞いを続けた。しかしその願いも空しく、元弘2(1332)にこの地で斬首され、その生涯を閉じた。
 墓は死後16年を経て建立され、今もなお619日の命日には地元の人々によって手厚く供養されている。


⑭柏原西見附跡

   ・・・滋賀県米原市柏原

柏原宿の西の入口である見附の跡。

この地の海抜は174mと高地である。


<柏原宿> ・・・滋賀県米原市柏原

柏原宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて六十番目の宿場町。東西約1.4キロメートルにおよぶ中山道の中でも大規模な宿場町で、現在では常夜灯や街道沿いの宿場町特有の2階建ての軒の低い数軒の家が面影を伝えている。伊吹のもぐさの産地として有名で、昔は多くのもぐさを商う店が街道沿いに軒を並べていた。現在の1軒が残っている。

宿場の規模は、長さ東西13(1400m)、人口1468人、家数344軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠22軒であった。


⑮柏原一里塚跡

    ・・・滋賀県米原市柏原

京都三条大橋から20里目、江戸日本橋から115里目の一里塚。


 ⑯伊吹堂亀屋七兵衛左京 (もぐさ屋)

    ・・・滋賀県米原市柏原2229

 お灸の故郷、伊吹艾(もぐさ)亀屋佐京商店は、伊吹山の麓でお灸やもぐさを製造・販売する会社。創業は寛文元年(1661)であり、今も江戸期の風情を残す店構えを残している。 

 また木曽海街道六拾九次之内柏原の版画絵の中で歌川広重がもぐさ屋の店頭風景を描いており、その絵の中には裃(かみしも)を付けて扇子を手に持ち大きな頭に大きな耳たぶという福々しい姿で街道を往来する旅人を見守る福助人形の様子も描き込まれている。
福助人形」の起源には諸説あるものの、当店に実在していた勤勉で道行く旅人に手招きをして艾を勧めていた番頭さんが福助人形のモデルというのが有力な説と言われている。

   

<柏原宿内の風景>


⑰柏原宿本陣跡

・・滋賀県米原市柏原967-2

柏原宿本陣は江戸時代を通し南部家が本陣を務めていた。間口はこの家の両隣りを合わせた広さで、屋敷は526坪、建坪は138坪あった。建物は皇女和宮宿泊の時、新築されたとも云われる。


⑱照手姫笠掛地蔵
・・・滋賀県米原市柏原1170

中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の地蔵である。
常陸国(茨城県)小栗城主小栗助重が毒酒のため落命の危機に逢いながらも餓鬼阿弥となり一命を取止め、これを悲しんだ愛妾照手姫は、夫助重を箱車に乗せ、狂女のようになり懸命に車を引張ってここ野瀬まで辿りついた。そして野ざらしで路傍に佇む石地蔵を見つけ、自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ
 「立ちかへり 見てだにゆかば 法の舟に のせ野が原の 契り朽ちせじ」
と地蔵からのお告げがあった。
勇気をえた照手姫は、喜んで熊野に行き療養の甲斐あって夫助重は全快したことから再びこの地を訪れ、お礼に寺を建て石地蔵を本尊として祀ったという。


⑲東山道 道標

  ・・・滋賀県米原市柏原

東山道と中山道の分岐点。中山道は東山道の上に敷設された地域もあるが、ここは東山道を廃道にして別のルートに設定した分岐点。

(右の写真は東山道)


⑳寝物語の里碑 ・・・滋賀県米原市長久寺

近江と美濃の国境は、この碑の東10m余にある細い溝だった。この溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話合えた」ので、寝物語の名が生まれたといわれている。
また平治の乱(259年)後、源義朝を追ってきた常盤御前が「夜ふけに隣り宿の話し声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられている。

   中央の溝の右は近江国(滋賀県)、左は美濃国(岐阜県)

  <今須宿>  ・・・岐阜県不破郡関ケ原町今須

西の近江国から美濃国へ入った最初の宿場であり、江戸から数えて五十九番目の宿場町。宿場の規模は東西1055(1189m)、人口1784人、家数464軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠13軒。現在は静かな街並みの中に常夜灯や問屋場遺構が往時の歴史を伝える。


21. 常夜灯 ・・・岐阜県不破郡関ケ原町今須3432−1 他

現在も夜間は灯が灯される常夜灯。


22. 今須宿本陣跡 ・・・岐阜県不破郡関ケ原町今須3479

関ケ原の戦いの後に石田三成の居城である近江佐和山城を攻める際、ここ今須の地で休息をとり、徳川家康が腰掛けたと云われる石が本陣内にあった。現在は向いの妙応寺の境内に移されている。

 

23. 妙応寺
・・岐阜県不破郡関ケ原町大字今須2591-1

 妙応寺は室町時代の初め、正平15年(1360年)に、今須領主長江重景が、亡き母・妙応のために創建した県下で最も古い曹洞宗寺院。門扉には菊花紋章が埋め込まれ、荘厳な本堂が建ち、五百羅漢が整然と並ぶ姿は壮観。

境内には前述の徳川家康が関ケ原合戦を終え、腰掛けて一服したと言われる「徳川家康腰掛石」がある。


<本日のゴール>
・・岐阜県不破郡関ケ原町大字今須
2591-1

本日はここ妙応寺がゴール

20231118日 17:00



   
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