今までの俳句
令和3年度

季節によせて Vol.533   令和4年3月26日 
水浴びて水かがやかす春の鳥     晶 
 庭先の目高を飼っている鉢へばしゃばしゃ、鵯や鳩が水浴びにやってくる。

鉢の中に沈めている睡蓮の鉢を足場に大胆に水を零しながら水浴びをしていく。部屋の中から犬が吠えても出られないことをよく知っているようで動じる気配がない。漸く咲き始めた喇叭水仙はしぶきがかかってきらきら。冬の間に落葉が降り積もり澱んでいた鉢の水を入れ替えたので水が眩しい。目高の俊敏な動きが目を楽しませてくれる。


季節によせて Vol.532   令和4年3月19日 
半熟に指汚して春の風邪     晶 
 コロナウイルスの変種が次々現れてなかなか収束する気配がない。いつになったらマスクなしで普通の生活ができるのかとじれったくもあるが、対策を取ったうえで様々な活動が再開され始めた。鼻風邪など風邪の引き始めならなら温かくして家で大人しくしているのが一番。熱もないので誰も心配してくれないが、一日家にいるので犬は喜んでくれている。

季節によせて Vol.531   令和4年3月12日 
あたたかや四隅のまろき卓囲み     晶 
 天然材の卓が流行っているのか、一枚板を取り扱っているお店が増えた。

材質も切り方もさまざまで、木の年輪がきれいに出る輪切り、木目がきれいに出て長さが取れる縦切りがあり、客の好みに合わせてカットし加工を施してくれる。木の手触りや独特の匂いは温かみがあってふとした拍子についた傷さえも年を重ねると懐かしい。手入れが悪いと罅が入りやすいので気を付けたい。


季節によせて Vol.530   令和4年3月5日 
列島は帆を張るかたち春一番     晶 
 先日、日本列島の成り立ちを解説している番組があり非常に興味深く面白かったが一言で説明するのは難しい。だが、日本に地震や火山が多いのはこの成り立ちとプレートの沈み込みが原因であることだけはわかった。有史以前からの動きで列島は今のような弓なりの形をしている。マンモスや恐竜の化石が出土するのもまだ大陸と未分化であった頃の名残なのかもしれない。

季節によせて Vol.529   令和4年2月26日 
末黒野の雨に火の香の蘇る     晶 
 早春に害虫駆除と萌え出る草の成長のために畔や野原に火を放つことを畦焼きとか野焼きといい、野焼きをしたあとの野を「焼野」という。また野焼きのあとに草木の先が黒く焦げ残っていて、下からは緑が萌え出ているさまを末黒(すぐろ)といい、その野原を末黒野(すぐろの)という。一面黒く見える末黒野にはしばらくしても焦げ臭さが残っているような気がするのである。

季節によせて Vol.528   令和4年2月19日 
ほぐれゆく雲を映して水温む     晶 
 冬の間、空を覆っていた重たそうな雲も春が近づくにつれ打ちたての綿のようにふっくらと白くふくらんでくる。たっぷりと太陽の光を含んだ雲がどんどんほぐれていくさまは見ていて楽しい。二月も半ばを過ぎると大地にも水辺にも芽吹きが始まり、春が近いことを感じさせてくれる。水温むは日差しによって川や池,沼や湖などの水が温んでくるという早春の季語。海の水が温むとは言わない。

季節によせて Vol.527   令和4年2月12日 
擂ればすぐ香りたつ胡麻春浅し     晶 
 焙烙があればよいのだが持ち合わせないのでフライパンの小さいので胡麻を煎る。弱火で熱していくとぷちっぷちっという音をたてて胡麻が香ばしい香りを立てはじめる。これを擂鉢に入れて丹念に擂っておくと香りのよい胡麻和えが味わえる。スーパーなどでも摺ごまが売られているが煎り胡麻にして擂るという一手間で味がうんと変わる。春先は胡麻和えにしたいものが顔を出す。

季節によせて Vol.526   令和4年2月5日 
隙なくもなし尻立てて潜く鴨     晶 
 日本にいる鴨はおよそ29種類と言われるが鴛鴦と軽鴨だけが留鳥で大方は秋に飛来し、春北方へ帰っていく。早朝や夜間に草の実や餌を取りに行き、昼間は群れをつくって水に浮いていることが多い。水鳥なのに潜って泳ぐということはなくぷくんとお尻を立てて頭を水に押し込んで水中の餌をさがす姿が何ともおかしい。

季節によせて Vol.525   令和4年1月29日 
笹鳴きや挟みて余る紐栞     晶 
 鴬の谷より出づる声なくば春来ることをたれか知らまし(大江千里)と古今集に歌われたように明瞭な声で鳴く鶯は春・夏・冬に季語として登場する。春「初音・春告げ鳥・鶯・鶯の谷渡り(ケキョケヨという声のこと)」、夏「夏鶯・老鶯・残鶯・鶯音を入る(繁殖期を過ぎ鳴かなくなること)」、冬「冬の鶯・籔鴬・笹鳴(鶯が藪を潜ったり枝を飛び移りながらチャッチャと鳴くことまたは鳴き方)」季節ごと詠まれてきた鶯、いかに親しまれてきた鳥かということが分かる。

季節によせて Vol.524   令和4年1月22日 
被せ藁を庵のごとくに寒牡丹     晶 
 12月から1月にかけて咲く牡丹を冬牡丹、または寒牡丹という。春、若い蕾を摘み取って花期を遅らせ真冬になってから花を咲かせるのである。根もとにも藁を敷きつめ藁で覆いをして花の少ない時期に蕾をつけさせ冬の日差しに時間をかけてふくらみ花びらを開いていく。初夏に咲くものに比べると小ぶりではあるがやはり人目を引く華やかな花。

季節によせて Vol.523   令和4年1月15日 
母の手の温みを肩に初写真     晶 
 新年の季語には「初」が付くものが多い。新年初めて何かをすることを「初○○」とか「○○始め」などという。「初写真」は言うまでもなく初めて撮る写真のこと。正月を迎え、三代四代と集まって賑やかに撮る写真は楽しい。コロナ禍で会う機会が少なくなって残念な思いをしている人も多いことだろう。早くマスクなしで会える生活が戻ってくることを祈っている。

季節によせて Vol.522   令和4年1月8日 
人日や仏のために花を選り     晶 
 人日(じんじつ)は17日のこと。人日は人勝節ともいい中国の前漢時代に定められた日で、人を占いまた尊ぶ日のことだとか。元日から六日まで天候によりその年の禽獣や農作物が豊かかどうかを占い、七日は人の世界を占ったらしい。そのような風習は今でも残っているかどうかはわからないが、粥占いという行事は神事として残っているところもある。庶民の中にも七日粥を食べる習慣は令和の今も受け継がれている。

季節によせて Vol.521   令和4年1月1日 
波音のあとに波見え初茜     晶 
 一年の初めの初日はやはり記念すべきもの。よって季語も初日が上る前の「初明り」、明け方の空の「初東雲」、初日の昇る直前の茜色の空を「初茜」などと時間をおっての季語があり、詠み分けることが求められる。まだ明けきらない海に波音を聞いて初日を待っていると空がだんだん茜色になり波が見えるようになってきた。ここからは日の出の勢いというぐらいだから初日が歓声に迎えられるのにたいして時間はかからない。新しい年の始まりだ。

季節によせて Vol.520   令和3年12月25日 
枯菊の思ひのほかに撓りけり     晶 
 香り高く咲いていた菊も霜や時雨にあいいつのまにか萎れて枯れかかってきた。美しいものほど衰退が目立って残念な思いが募る。次々に蕾を挙げて長らく楽しませてくれていた菊も霜にあい枯れを免れなくなった。見た目にも枯れ進んで、抱き起せばぽきぽきとひとりでに折れるだろうと思っていたら、案外しなやかに曲がることに驚いた。牡丹、菊には「牡丹焚く・」菊焚く」という季語がある。高貴な香りのするものはただ捨てるには忍び難しということだろうか。

季節によせて Vol.519   令和3年12月18日 
酢海鼠を食べて弟子入り許さるる     晶 
 思い立ったら即、の私が句会に入会申し込みをしたのは平成712月。納会なのでと誘われるままに忘年会にも参加し、出されたお通しが酢海鼠(なまこ)。好物だったのでぺろっと食べてお酒もいける口と見たと一月からの句会に参加させてもらえることになった。車を運転していたのでお酒は遠慮したが、その時から俳句と私の長い付き合いが始まった。当時の納会の席にいた方々はもう誰もいない。ご指導いただいていた先生は今年九月に93歳でお亡くなりになった。

季節によせて Vol.518   令和3年12月11日 
日の匂失せて嵩減る落葉籠     晶 
 一度に落ちてくれたら楽なのにと思うのが落葉掃除。子供の頃、竹箒で枝を叩いて明後日の分まで落とそうとして風情のないやつと叱られた記憶が。梢に残っていた冬紅葉もやがては散る。自然の森ならば厚く散り積もった落葉がやがて朽ちて地に還るのだろうが、名園や名跡の寺社では朝夕の落葉掻きが欠かせない。枯山水や苔に散りかかる紅葉は息をのむ美しさ。

季節によせて Vol.517   令和3年12月4日 
ポン菓子の爆ぜる匂ひや茶の木咲く     晶 
 ネット検索は電子辞書に出ていない「ポン菓子」のような言葉も調べられて重宝だ。ウィキペディアによると、「ポン菓子・ドン菓子」とは、米などの穀物に圧力をかけた後に一気に開放することによって膨らませた膨化食品・駄菓子の一種であると出てくる。米、小麦、とうもろこしの他、」蓮の実なども美味しいらしい。1901年にミネソタ大学の研究者が試験管に米を入れて加熱するとき蓋をして破裂させた失敗からの産物らしい。失敗は成功の基、特許を取って1904年のセントルイス博覧会で真鍮製の大砲でデモンストレーションを行って広まったらしい。呼び方は地方でいろいろ違うようで、私たちのところではパットライスと言っていた。

季節によせて Vol.516   令和3年11月27日 
翅立てて綿ふくらます雪ばんば     晶 
 晩秋から初冬にかけて空中を青白く光りながらふわふわと飛んでいるのが綿虫。大綿、雪蛍、雪ばんば、白粉ばば、雪虫とも。たった2ミリほどの虫だが身近にいて冬の到来を告げるような虫なので俳句に詠まれる頻度も高いが、虚子編の新歳時記には掲載されていない。角川大歳時記冬の例句も「窖(あなぐら)ちかく雪虫まふやのべおくり(飯田蛇笏)」に始まる。いつから季語になったかは分からないが、比較的新しい季語であったことを知った。

季節によせて Vol.515   令和3年11月20日 
マスクして互ひのことに関わらず     晶 
 マスクを強いられる暮しも二年近くに及ぶ。コロナ感染症予防のマスクは期間がないので季語にはならないというのが定説。季語としてのマスクは冬季の乾燥した寒気を防いだりインフルエンザウイルスなどの病原体の体への侵入をくいとめるためのもの。手先の器用な友人が極暖マスクだよと縫ってくれたのは不織布を間に挟んだ三重構造ですこぶる暖かい。顔がほとんど隠れるようなマスクをして距離を保つ暮しはそろそろ終わりにしてほしいものだ。

季節によせて Vol.514   令和3年11月13日 
長雨をしほに始める冬支度     晶 
 気候温暖化の影響で秋の穏やかな日が少なくなったように思える。先週までは夏を思わせるような日ざしだったのに、急激な冷え込みで紅葉が一気にすすんだようだ。庭の赤い実をつけたアメリカ花水木や早咲きの椿の花に小鳥が来ている。思えば11月、明らかに冬に向かっているのだからと、押し入れや天袋にしまっていた冬ものを引っ張り出す。雨があがってこんど晴れた日に干せるように。

季節によせて Vol.513   令和3年11月6日 
竹叢を鳴らす川風崩れ簗     晶 
 河川敷には竹藪が多い。竹が根を張って堤の決壊を防ぐようにと植えられたものかもしれない。その竹藪も手入れがされないと密集し風折れも進む。仲秋をすぎると、秋も雨がちになって川を下る魚が増える。信州に住む義姉は落鮎の頃になると簗番への炊き出しに大忙し。鮎飯、豚汁など移動式の竈で河川敷で作るんだそうだ。川風が冷たくなるころ、温かい豚汁に体も温まる事だろう。

季節によせて Vol.512   令和3年10月30日 
鳴るまでの間をたつぷりとばつたんこ     晶 
 水の力で音を出す仕掛けで、多くは竹の中央に支点を置き、片方に水を引き水がたまるとその重みで傾いて水が流れ出すし、その勢いで跳ね返った端が石を強く打って音を出すという仕組み。添水(そうず)、ばったんこ、兎鼓(うさぎつづみ)、添水唐臼(そうずからうす)ともいう。水がちょろちょろしか流れていない時は、次のばったんこまでに、忘れてしまうぐらい間があいてしまう。

季節によせて Vol.511   令和3年10月23日 
歩板ゆさゆさ揺らし牧帰り     晶 
 放牧していた馬や牛を持ち主が引き取り、牧場を閉じることを「牧閉ざす」といい、持ち主のところに帰っていくことを「牧帰り」という。放牧で存分に牧草を食べ一回り大きくなった牛が、トラックの荷台に渡した歩板をしならせながら上っているという句。もちろん、すんなりとトラックに乗る牛ばかりではないだろう、お尻を押したり鼻輪を引いたりしながらという場合もあろう。高地の冬は早い。牧場を閉ざした後の寒さも感じさせる季語。

季節によせて Vol.510   令和3年10月16日 
わだなかに立ち石庭の松手入れ     晶 
 観光の名所でなくても、お寺やちょっとした和風庭園に行くと石庭があって海にみたてたところに蓬莱の島を作り、松が植えられていたりする。春に新芽をあげた松は真みどりの葉を伸ばし、夏の間、結構な勢いで茂るので、枝振りや形が乱れやすい。そこで、時期になると庭師さんに手を入れてもらわねばならぬというわけだ。ブルーシートを広げて梯子を立てて伸びすぎた松の枝葉を丹念に切り落としていく。ばっさりと鋏を使うところ、進んでいるとは思えないほど念入りに鋏を使うところなど、松のいい香りが漂うなか松の手入れがすすむ。

季節によせて Vol.509   令和3年10月9日 
波紋押し広げて水の澄みわたる     晶 
 正岡子規句めぐり202197日の日めくりに「秋の水岩白く魚動かざる(明治31年)」という句があった。季語は「秋の水」。秋は谷川や湖沼などの水が透明で、川の中の白い岩やじっと動かずにいる魚が手に取るよう。透明で美しいこの季節の水に関わる季語は「秋の水」「水の秋」「水澄む」などがあるが、おもに川や湖沼などの水のことで、海や水たまり、汲み置きの水などには使わない。あくまでも生きた水ということだろう。

季節によせて Vol.508   令和3年10月2日 
見覚えの跳ね方をして小鳥来る     晶 
 ブルーベリーの収穫も終わり、我が家の庭の実物といえば、紫式部、アメリカ花みずきと恥ずかしながら、あまたの草の実。椿も咲き始めてるのでその蜜もお目当てか。今年も尉鶲がやってきた。ヒッヒッカタカタと鳴く声が火打石を打つ音に似ているので(ひたき)という名があるらしい。人をあまり怖れず、そばに行っても逃げないのが嬉しい。夏に山地で囀っていた小鳥が秋風と共に庭にやってきて鳴いているのを聞くと季節が一歩進んだことを感じる。

季節によせて Vol.507   令和3年9月25日 
金蒔絵めける輪島の虫時雨     晶 
 輪島は能登半島北岸にあり、漆器製造業と沿岸漁業が盛んな町。この街の特産の輪島塗は江戸時代寛文年間に、特産の地の子(珪藻土)の発見により堅牢な下地つくりに成功して今に受け継がれている。装飾法は蒔絵、沈金が盛んで、模様を彫るのに小型の丸鑿を用いるのも特徴とされる。もちろん、ホテルや旅館で使われる椀も輪島塗。凝った蒔絵もさることながら、黒塗りの椀の蓋の裏の梨地の蒔絵も目をひく。一面真っ暗の草むらで鳴く虫の声のように感じた。

季節によせて Vol.506   令和3年9月18日 
舌を押し返す弾力黒葡萄     晶 
 観光葡萄園が近くにあり、コロナ以前の休日は片側一車線の道路が数珠つなぎになるほどの混雑ぶり。葡萄棚の下に子供用のゴーカート場を作ったりバーベキュー施設を整えたり葡萄農家も葡萄作り以上に情熱を傾けていただけに、何とかこの苦境を乗り切ってほしいと願うばかり。採り頃に実った葡萄は袋越しにも甘い香りがして鳥や蜂が突きに来るのでその対策も欠かせないそうだ。白い粉はブルームと言って甘さがのって食べごろというサイン。品種を確かめながら、切り取った一房を木洩れ日の下で一粒づつ口にするのが葡萄狩の楽しみ。

季節によせて Vol.505   令和3年9月11日 
蓑虫のどれも一点物の蓑     晶 
 ミノガ科の蛾の幼虫が蓑虫(みのむし)。樹の葉や小枝を糸で綴って巣をつくり、そのなかにひそんでいる様子は、まるで蓑をまとっているかのように見える。雄は成虫になると蓑から出るが、雌は成虫になっても翅が生えないので一生巣から離れないそうだ。ところで、蓑虫はどんな葉を食べているのだろうか。チャミノガ(細長い筒状の蓑)はチャ、ソメイヨシノ、コナラ、ヤナギ、ニセアカシアなど。オオミノガ(葉や枝で紡錘形の蓑)はソメイヨシノ、ウメ、オニグルミ、イチジク。ニドべミノガ(表面に大きく切った枝や葉をたくさんつけた紡錘形の蓑)はリンゴ、クヌギ、コナラ、アカメガシワなどだそうです。

季節によせて Vol.504   令和3年9月4日 
かなかなの林明るくなりはじめ     晶 
 緑と黒の斑点がある黒褐色の体に透明な翅をもつ蟬が「蜩(ひぐらし)」。晩夏から鳴き出し明け方や夕方の薄明るい光の中で「カナカナカナ」と美しい声を遠くまで響かせる。朝、涼しいうちにと林の方へ歩きに行くと消え入りそうな声に出会う。「日暮・茅蜩・かなかな・寒蟬」いろいろな呼び名があるが、同じく秋の蝉でもにぎやかに鳴く法師蟬(つくつく法師・つくつくし)とはずいぶん趣が異なる。

季節によせて Vol.503   令和3年8月28日 
踊の輪離れて父を知る人に     晶 
 帰省先の近くにある学校の運動場で毎年、盆踊り大会が催される。夕方、まだ日のあるうちから音楽を流しながら櫓太鼓が演奏されたり、模擬店が出されたり、大人も子供も年に一度の盆踊りを楽しみにしているようだ。父の初盆の年、盆踊りの明るい灯を見ながら、みんなで出掛けた盆踊りを懐かしく思い出していると、盆踊りの最後をつげる花火が大きく開いた。盆踊りとは本来は先祖の供養のためであったものがいつしか娯楽になって浴衣がけの男女が音頭に合わせて夜の更けるのを忘れて踊るようになったと言われる。

季節によせて Vol.502   令和3年8月21日 
堰き止むるさまに雲出て天の川     晶 
 あまりにも星が見えすぎると恐ろしく思えることもある。内モンゴルでパオに泊まった時のこと。草原なのでパオの灯と手にしている懐中電灯だけが頼り。北斗七星と夏の星座のいくつかしかわからない状態では方角など皆目見当もつかない。空一面の星が頭上に覆いかぶさってくるようなそんな錯覚さえおぼえたのを思い出す。明りが多く湿度の高い日本では全天に星が見える場所はそうないと思うが、雲にやきもきしながらの星空も悪くはないと思える。

季節によせて Vol.501   令和3年8月14日 
丈なして草うちそよぐ今朝の秋     晶 
 どんなに暑くても草は伸びるし茂る。刈らねば、抜かねばと思っているうちに暦の上では秋になった。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる(秋が来たようには周りを見ても見えないけれど吹く風の音には秋が感じられる)」という歌のように、今年は暑い暑いと嘆かずに庭のどこかに秋の欠片でもないかと探してみたら、水引の花が紅白の穂を伸ばし、秋海棠が息をひそめるように咲いていた。昼は蝉がまだうるさく鳴いているが、夜中には草むらで虫の声がする。薄く寄せる波のようにたしかに秋は来ているようだ。

季節によせて Vol.500   令和3年8月7日 
風鈴や文芸欄を拾ひ読み     晶 
 気象庁の発表を見るまでもなく、このところの夏の暑さは尋常ではなくなっている。私の住んでいる所は山に近いし、少し行けば蛍が飛ぶ川もあるのだが、以前のように、夕方、水を打って窓を開けておけば涼しい風が入ってくるなどという日は本当にまれになった。そんな環境ではあるが、午前中、台所の片づけが終わったテーブルで新聞を広げていると、お隣の風鈴が気持ちの良い音で聞こえてくることがある。南部風鈴だろうか。滝のようにすさまじい音も涼感を呼ぶが、生活の中の音はかすかな音の方が涼しさを感じるようだ。

季節によせて Vol.499   令和3年7月31日 
蒸してゐる厨や一夜酒醸し     晶 
 麹(こうじ)の力が見直され、最近はスーパーでも乾燥したもの、板状にしたもの、真空パックのものなどを見かけるようになり手軽に手に入るようになった。しかし、私が一番おいしいと思う麹は紙袋に入れて売っているふわふわの麹である。その店の麹は、生きて呼吸をしているからと今でも絶対紙袋。その麹で作る甘酒(一夜酒)のなんとまろやかで甘くておいしいことか。帰省したとき買って車に積んで持ち帰ったら紙袋が水分で湿っていた。まさしく呼吸している証。柔らかく炊いた飯または粥に米麹を加え、発酵させたものが甘酒。67時間でできることから一夜酒というが、アルコール分はほとんどない。

季節によせて Vol.498   令和3年7月24日 
虹の根のあたりが旅の終着点     晶 
 コロナ感染症が終息するまではと中断しているが、東海道53次を京都から日本橋まで歩くツアーに参加している。バスを使いながら二、三宿歩いてはまた翌月のツアーに参加しまた歩くという旅。雪が残る一月に三条大橋を出発し晴れる日も雨の日も蛭のいる鈴鹿峠も越えたのに、コロナで足止めされている。感染症恐るべし。今では虹の根のあたりが日本橋と思っている。まだまだ先は長いが、できれば歩き通したい。

季節によせて Vol.497   令和3年7月17日 
青岬サイドミラーに遠ざかる     晶 
 中学三年の夏休みに初めて一人で旅行をした。と言っても、小学六年で転校した友達の家へ遊びに行ったのだ。ディーゼル列車で予讃線の宇和島駅で下り、そこからはリアス式海岸に沿って走る路線バスに乗った。どこで下りたかバス停は記憶にないが漁港の町で、そこで初めて海底が見える船にも乗せてもらってそれは楽しい旅だった。明日は帰る日という日、夜からどしゃ降りの雨。もう一日泊まっていけばと言ってくださったのに「明日から補習があるから帰ります。」と雨の中を見送ってもらってバスに。彼女とはそれ以来会う機会もないままだ。今なら躊躇なく泊めてもらってただろうに。14歳のときから融通がきかなかったなあと時折思い出す。

季節によせて Vol.496   令和3年7月10日 
風鈴を吊るす鳥籠より高く     晶 
 金属、陶器、ガラス、貝殻などで作られた鈴で風通しの良い所に吊るしてその音色に涼気を楽しむのが風鈴。であるから、一年中吊るしっぱなしにしているというのはあまりいただけない。中国から日本に入ってきたのは鎌倉時代、室町時代には上流階級でのみ親しまれたようだが、庶民的なものになったのは江戸時代以後。今はあまり見かけないが風鈴売りが町を売り歩くのも夏の風物詩であったようだ。

季節によせて Vol.495   令和3年7月3日 
夏帯を締めてゆかねばならぬ用     晶 
 暑い季節の和服での外出は汗っかきの私には朝からちょっとした緊張が走る。着物を着る部屋は冷房を強めに入れて着物も帯はもちろん、下着や小物に至るまで手早く身に着けられるように並べる。着物も帯も薄いので透けることが前提なのでごまかしがきかない。急ぐ時に限って皺が出たり気に入らないところが出て来る。ようやく着付けが終わるころにはうっすら額に汗が浮かぶのである。本来の用はこれからというのに。

季節によせて Vol.494   令和3年6月26日 
口付けて波紋広がる山清水     晶 
 山歩きをしているとところどころに水が湧き出しコップが置いてあったりする。以前なら躊躇なく味わっただろうが、コロナ感染症が収まらない昨今、何となくコップを共有するのも憚られ自前の水筒を用意している。山から湧き出す清水は野菜を冷やしたり畑の水やりに使ったりまさに生活の一部。そんな水飲み場で気楽に地元の人と話せるときが早く戻ってくることを祈る。

季節によせて Vol.493   令和3年6月20日 
白玉の艶やか水をくぐらせて     晶 
 米粉、上新粉、白玉粉、粉もいろいろあるが、もち米を洗って水につけたのち水切りして水を加えながら摩砕してみずにさらして乾燥させたものが白玉粉。以前は寒中に作ったので寒晒し粉とも言いたいそう手間のかかる粉のようだ。それを水でこねて小さく丸めて熱湯で茹でて冷やしたものが白玉。名前の通り艶やかで滑らかな舌触りが涼味を誘う。喉越しを楽しむならそれだけでもよいが、やはり茹で小豆や冷し汁粉がおすすめ。

季節によせて Vol.492   令和3年6月12日 
ラムネ飲む迷路のごとき城下町     晶 
 街道を来て城下町に入るととたんに曲がり角が多くなる。容易に攻め入られないためであろうが、このご城下も27曲りと言われる曲がり角を抜けねば街道へ出られない。街道筋を走った昔の飛脚はきっと難儀なことだったろうが幕藩体制を維持するには関所と共に必要なことであったろう。俳句を始めたころ、当地の27曲りを一人で歩いてみて街道歩きの面白さを知り京都三条大橋を出発するツアーに参加して東海道53次を歩き始めたがコロナ感染症の影響でストップ。お江戸日本橋が遠い。

季節によせて Vol.491   令和3年6月5日 
下駄箱に砂のざらつく薄暑かな     晶 
 まだ本格的な暑さとは言えないが、お天気が良ければ気温が上がり、少し動くと汗ばんでくるような初夏の暑さが「薄暑」。その頃の眩しい日差しが「薄暑光」。明治末期に定着した比較的新しい季語であるため、「街薄暑・夕薄暑・島薄暑」など「(限定された)薄暑」の例句も多いが、「嵯峨豆腐買ふ客ならび薄暑かな」と「嵯峨豆腐買ふ客ならび街薄暑」を比べてみると心なしか街薄暑は窮屈に。正しいのはもちろん前の句。

季節によせて Vol.490   令和3年5月29日 
煮返して汁の煮詰まる麦の秋     晶 
 「麦の秋」とは初夏に麦が黄金色に熟し、収穫を待つ頃のことで「麦秋(むぎあき・ばくしゅう)」ともいう。まわりが新緑や若葉の緑が美しい季節だけに麦の黄金色が目に鮮やか。収穫時の「秋」が用いられる意味が納得。春の季語「竹の秋」は前年に蓄えた養分を地下の筍に贈るため葉が黄ばんだ状態になるので他の植物の秋の様子、凋落(ちょうらく)を思わせるとして生まれた季語のようである。同じく「秋」を伴っても季語のイメージは少し違ってくる。

季節によせて Vol.489   令和3年5月22日 
石蹴りの石が石撥ね夏来る     晶 
 今年の立夏は55日。暦の上ではこの日から夏が始まるというわけだが、今年は三月が観測史上最高に暖かかったせいで四月に入り寒の戻りがあり、降雪や遅霜の被害が報告されるなどこの季節は案外不安定。それでも、今日から暦の上では「夏」と聞くと洋服なら「白」っぽいものが着たくなるし髪も短く切りたくなる(無論、私だけでしょうが)。「夏立つ・夏に入る・夏来る(きたる)・夏来(なつく)」ともいう。有名な「卯の花の匂う垣根に」という歌があるが「夏は来ぬ」ももちろん立夏の傍題。

季節によせて Vol.488   令和3年5月15日 
鉱脈の尽きたる山か雉走る     晶 
 雉が国鳥だとは知らなかった。春の繁殖期には押すが縄張りを示すためにケーンケーンと鋭い声で鳴く。当地でも番らしい雉を時折見かけるが人を怖れる様子もない。万葉集に「春の野にあさる雉(きぎす)の妻恋ひに己があたりを人に知れつつ(大伴家持)」とあるように春の雉の声は妻を恋う声と詠まれてきた。羽搏きながら鳴くことを「雉のほろろ」というそうだが、実に力強い羽音である。

季節によせて Vol.487   令和3年5月8日 
春愁や揺れを同じく社旗・国旗     晶 
 「春愁(しゅんしゅう)」とは春ゆえの気だるさを伴うそこはかとない愁いや哀しみのことと季語の説明にあり、その例句として「春愁やかたづきすぎし家の中(八染藍子)」。片付いているのは気持ちが良いが、あまり片付いているのもなんとなくというのだろう。まだ体も心も気温や新しい環境に馴染んでいない「春ゆえの」というのがこの季語のポイントであろう。「人の世に灯のあることも春愁ひ(狩行)」当たり前にある灯火でも春だからこそ感じた春愁ひ(名詞)。「春愁ふ」と動詞化するのはよくない。

季節によせて Vol.486   令和3年5月1日 
風光る砂紋の砂を走らせて     晶 
 春になって日差しが強くなると風迄きらめいているかのように感じられる。そんなときに使いたい季語が「風光る」。春は思いのほか風が強く船が欠航したり突風で木が倒れたりする。早春のやや荒いが梅を咲かせると言われる「東風」、お彼岸頃、俗に西方浄土からの迎え風と言われる「涅槃西風(ねはんにし)」、立春後初めて吹く南風の「春一番」などなど、「春の風」には冬に逆戻りさせる風や季節を後押ししてくれる暖かい風がいりまじる。

季節によせて Vol.485   令和3年4月24日 
すぐそこと言はれ霞に目を凝らす     晶 
 中国を旅行した時のこと。行けども行けども目的地に着かない。いったいどこまで歩けばよいのかといささかうんざりしかけたころ、地元に人に道を尋ねたところ、みんな口をそろえたように「馬上、就到了(もうすぐ着くよ)」。しかし……見えない。なんてったって広い国の「もうすぐ」は日本では「まだまだ」と解釈しないといけないと気づいたのは旅も終わるころだった。今はどこへもいけないし日中関係も以前ほど穏やかではないが、機会があればまたのんびり訪れたいと思っている。

季節によせて Vol.484   令和3年4月17日 
手を入れて丸く掬ひぬ春の水     晶 
 春夏秋冬の季節を冠すれば何でも季語になるかと言えば、実はそうでもない。たとえば、「水」は「春の水」「秋の水」「冬の水」はあるが「夏の水」というのはない。それはこの季語が単に「水」だけでなく周りの景色や状態に関りを持つからであろう。寒さがゆるんで水面まで光で包まれているような水面、思わず手を差し入れて掬いたくなる。そんな明るい水辺からは鳥のさえずりも聞えて来る。

季節によせて Vol.483   令和3年4月10日 
春陰や振子止まれる掛け時計     晶 
 春陰とは春の曇りがちの天候のこと。明るい春にあって愁いを帯びた陰りを感じさせる季語。デジタル時計全盛の今の世にも振り子時計がと思ったら振子が止まっている。その部屋のそのあたりだけまるで時間が止まっているような感覚さえ生じたという句。以前の柱時計は8日巻き、または15日巻きぜんまいの振子時計が多かったが現在はほとんど水晶時計、もしくは電波時計だ。

季節によせて Vol.482   令和3年4月3日 
木の芽時ひと雨ごとといふ区切り     晶 
 春先は雨の日が多い。それも音を立てるような雨ではないがしとしとといつまでも降り続くような雨でもない。柔らかな日差しの中で針のような光をふくんだような雨が降り注ぐ。卒業や進級、転勤、春はいろんな区切りをつけながらすすむ季節。雨が降るごとに季節が進んでいく気がする。




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