今までの俳句
令和5年度

季節によせて Vol.636   令和6年3月30日 
揺れゐるは我かもしれず糸桜     晶 
 樹齢を重ねた枝垂れ桜はしなやかな枝を地上まで垂らす。なかには惜しげもなく地面を掃くような長い枝も。どの枝もどこかが揺れていて見ているうちにどっちが揺れているのだ?と錯覚してしまった。寺社の境内や庭園に植えられることが多く三春の滝桜、平安神宮の紅枝垂れ桜など各地に名木がある。
「まさをなる空よりしだれざくらかな(富安風生)」
「飲食をしだれざくらの傘のなか(木内怜子)」

季節によせて Vol.635   令和6年3月23日 
少し間のありて次なる蟻出づる     晶 
 少し暖かくなってくると蟻が姿を現していることに気付く。まだ数は少ないのだが小さく黒い蟻が何かを探してうろうろ歩き回っている。冬の蟻の巣はどんなぐあいだろう。小さいとはいえ、けっこうな数の真っ黒い蟻が真っ暗の中で犇きあっているのだろうか。早く目が覚めても穴の外に出るのは順番待ちなのだろうかと想像してしまう。
「蟻穴を出でて驚きやすきかな(山口誓子)」

季節によせて Vol.634   令和6年3月16日 
太陽に一日背を向け菊根分け     晶 
 宿根植物は春になると古株から新芽が出てくる。それをそのままにしておくと根詰まりがしていい花が咲かないので芽の着いたところを分けて新しい鉢に植えることを根分という。誰にあげる当てもなくせっせと菊の鉢をふやして家人に迷惑がられることも。
「菊根分父訪ふ人の稀隣(片山由美子)」
「菊根分振り向きざまの日がまぶし(蟇目良雨)」

季節によせて Vol.633   令和6年3月9日 
濡縁の縁を濡らして春時雨     晶 
 春になっても時雨ることがある。初冬の時雨は何となく寂しさを覚えるが春の時雨はどことなく明るく感じられる。「晴れぎはのはらりきらりと春時雨」(川崎展宏)中七の「はらりきらり」が春時雨の降り方明るさを言い表している。春は雨の日でさえ明るい。

季節によせて Vol.632   令和6年3月2日 
桟橋に見送る島の日永かな     晶 
 1月半ばぐらいから目に見えて昼間の時間が長くなり春分を過ぎる頃には夜より昼間の時間が長くなり気持ちのゆとりも出てくる。三月は別れの季節、転勤や進学で島を離れる人を桟橋まで出向いて別れを惜しむ。テレビなどでは突堤の端まで走って行って離島の人に手を振る光景もよく目にする。夏目漱石に永き日や欠伸うつして別れゆくという句がある。誰にうつしたのだろうと詮索したくなる。

季節によせて Vol.631   令和6年2月24日 
ルビ多き子供新聞あたたかし     晶 
 ひきつづき「あたたかし」が季語の句。春の温暖な陽気をいう季語ではあるが心理面の暖かさと取り合わせることもできる。
暖かや飴の中から金太郎(川端茅舎)
あたたかや道をへだてて神仏(富安風生)
踏みはづす手乗り文鳥あたたかや(秋元不死男)
あたたかや布巾にふの字ふつくらと(片山由美子)

季節によせて Vol.630   令和6年2月17日 
あたたかや言葉つなげてゆく遊び     晶 
 しりとりは子どもの遊びだと思っていたが、頭の体操のような条件付きのしりとりとなるとすこぶる難しい。じゃんけんをしながらとか、植物だけで、などという条件がつくと子供にもあっさりと負けてしまう。ヒントをくれたりペースを落としてくれたり子供なりに気を遣ってくれていることがわかるとなんだかほっこりする。暖かは心地よい温暖な春の陽気をいう。

季節によせて Vol.629   令和6年2月10日 
干魚のはらわた苦き余寒かな     晶 
 立春を過ぎたのちもなお残る寒さのことを余寒(よかん)という。春寒(はるさむ)と似てはいるが余寒は寒さの方に重心がある季語で、春寒はすでに春になった気分がある中での寒さといった違いがある。
鎌倉を驚かしたる余寒あり(高浜虚子)
遠きほど家寄り合へる余寒かな(廣瀬直人)
塔の影水に動かぬ余寒かな(安立公彦)
人形の目の一重なる余寒かな(甲斐由起子)

季節によせて Vol.628   令和6年2月3日 
日の差して群れのほぐるる冬の鯉     晶 
 冬の間は寒さでじっと動かずにいた鯉も暖かい日差しに浮力を得たようにふわっと浮かんで来る。鯉のなかでも黒い真鯉の動きはひときわゆっくり最後に動き出す。尾びれや腹びれが触れて水底につもった泥が微かに動いて煙が立つようだ。寒鯉は寒中の鯉のことで水底にじっとしている。

季節によせて Vol.627   令和6年1月27日 
笹鳴きや裂く手がかりの切り印     晶 
 夏は山の奥で声を潜めていた鶯も秋の終りになるとだんだん人里に下りてきて冬の間は茂みや笹原などにいることから籔鴬などともいわれる。チャチャッチャチャッという声はよく聞くもののすばしっこいのでなかなか姿を見ることはできない。笹原が揺れて飛び移ったことがわかる程度。姿見たさによく通るところでは手を伸ばせば届くだろうと思う所で鳴いていてなんだかからかわれているような気がしている。

季節によせて Vol.626   令和6年1月20日 
宝珠めく蕾はぐくみ寒牡丹     晶 
 春先に設ける小さな蕾を摘み取って12月から1月にかけて花を咲かせるようにした牡丹を冬牡丹、または寒牡丹という。花には藁囲いをして敷藁を施し霜や寒さから蕾や花びらを守る。初夏の花よりは小さいが花の少ない真冬には一層あでやかで目を楽しませてくれる。初夏の牡丹園とは一味違うこの時期ならではの寒牡丹を見にいくのも良いだろう。

季節によせて Vol.625   令和6年1月13日 
ほころびて蠟梅の香のあふれだす     晶 
 蠟細工のように半透明で光沢がある事から蠟梅という字があてられるが、臘月(旧暦12月)に咲くことから臘梅とも書く。梅よりも少し高さがないが甘い香りが漂うのですぐに花があることがわかる。暖かい地方では暮れから咲いているので蜜の乏しい時期の蜂や虻にとっては嬉しい花。中国から渡ってきた外来植物なので唐梅とも。芯まで透き通るような黄色の花がそしん(素子心)蠟梅、芯に紫褐色の輪があるのが満月蠟梅。

季節によせて Vol.624   令和6年1月6日 
年惜しむ散り敷くものを掃き寄せて     晶 
 皆が集まる年末年始は忙しくても楽しみだった。父は庭の手入れに精を出し母は温かい寝具を用意して私たちの帰省を待っていてくれた。両親が亡くなり今では二人だけの年越し。大掃除と言うほど働くこともなく庭の落葉やさざんかを少し丁寧に掃き寄せて外回りは良しとする。お正月の神様は女の神様できれい好きだよと言ってた母の言葉を思い出す。

季節によせて Vol.623   令和5年12月30日 
雪吊を映す水面の張り詰めて     晶 
 雪の重みで木の枝が折れるのを防ぐために庭木の天辺や地中から樹形に合わせて縄を円錐形に張り枝を吊り下げておくのが雪吊(歳時記より)兼六園や雪深い地域の個人の庭でも見られる冬構えの一つと言えよう。姿の美しさからめったに降らないような地域でも冬の景色として繊細な縄を張っているものを見かけるが、やはりどこか緊迫感がない。豪雪地帯のそれは水に映っても凛としている。

季節によせて Vol.622   令和5年12月23日 
笹鳴きや仮縫ひの針打ち直し     晶 
 秋から冬に鶯がチャッチャッ、という舌打ちに似た地鳴きをすること、またその鳴き声を笹鳴きという。鶯の子どもの鳴く声とされた時もあったが、春に生まれる鶯はこの時期は全部成鳥なので、親子、雌雄を問わずこの鳴き方をする。「ホーホケキョ」という鳴き声は雄だけが春になって鳴く声。囀りである。

季節によせて Vol.621   令和5年12月16日 
手袋を馴染ます指を深く組み     晶 
 末端冷え性という言葉があるかどうかわからないが、指先が冷えるので冬の外出には手袋が欠かせない。これまでは運転をするからという理由で滑らない革の手袋を好んで使っていた。新しい革の手袋は手に馴染むまでにしばらく時間がかかるがその時間も楽しめたが、この頃は節くれだった指の形をひろう革の手袋より温かみのあるウールや毛糸の方がよくなってきた。

季節によせて Vol.620   令和5年12月9日 
土鍋ごと届く差し入れ夜番小屋     晶 
 携帯用の竈(くど)があるそうで、それに釜や鍋をのせて屋外で味わう季節の料理はおいしさも格別だろう。炊き出しに馴れた人は手際もよくあっというまに二三品並ぶ。よく使いこんだと見える土鍋の蓋が閉まらないぐらい大根や蒟蒻、がんもどきが詰まっている。聞けば朝から仕込んでいるのだという。熱々の鍋は夜回りで冷えた体には何よりうれしい差し入れ。

季節によせて Vol.619   令和5年12月2日 
碇泊の雲さながらに冬の雲     晶 
  春夏秋冬、それぞれの雲のイメージは明快であるが、冬の雲の場合は太平洋側と日本海側ではずいぶん印象が異なるであろう。どんよりと垂れこめた今にも降り出しそうな雪催いの雲やじっととどまって動かない雲、かと思えば青空に浮ぶ真っ白な雲もある。ただそんな白い雲も春の綿雲や秋の筋雲のような軽快さや軽やかさは感じられない。見るからにどっしりとして厚みを感じさせる。

季節によせて Vol.618   令和5年11月25日 
雲厚くなるよりはやくしぐれけり     晶 
  時雨は冬の初めに降る通り雨のこと。降ったかと思えば止み、止んだかと思えば日が差す中、雨がこぼれる。時雨は地域によって降り方が異なり、もっとも有名な京都の時雨は朝、もしくは午後に降ることが多く雨量は一ミリ以下でほとんど1時間以内で止む。金閣寺を中心に栄えた伝統的王朝文化と武家文化が融合した北山文化。その北山に降る時雨が紅葉を美しく染め上げる。旅人と我がなよばれん初しぐれ(芭蕉)、山ふたつかたみに時雨光悦寺(田中王城)、北山時雨きて鳥獣の国濡らす(鈴木栄子)

季節によせて Vol.617   令和5年11月18日 
尾根筋のうつすら白き今朝の冬     晶 
  近所の山に上ると空気が澄んでいる時は白山が見えるらしい。やはり雪を被るのは早いらしく尾根筋が白かったなどと言う話をきくとどうしても見たくて、ここから見えるという場所につれて行ってもらって目をうんと凝らして見た。友人が指さす方にそれらしく見えたのは白い尾根だったのか、雲だったのか、今でも定かではない。

季節によせて Vol.616   令和5年11月11日 
咲き残るものみな小振り冬隣     晶 
 昼はまだ長袖では暑いと思うような日ざしの時もあるので咲き残っている花に小さな蝶々や蜂がやってくる。それを狙って蟷螂も鎌をかまえている。

11月の初旬はまだ秋の気配が濃厚で立冬が近いと言われてもピンとこない。年々秋が短くなると感じるのは私だけだろうか、温暖化の影響なのかもしれないと思いつつ、花壇の手入れをする。花時が済んだ花を抜かねばと思うのだが小さな花を咲かせているともう少しそのままに、と思ってしまう。


季節によせて Vol.615   令和5年10月28日 
嘴傷のひとつとてなし柚子熟れて     晶 
 我が家にも柚子の木があり、毎年実をつけてくれる。多い年で100個以上なり柚子ジャム、ジュース、ととても重宝だが、棘には閉口する。本を見ながら剪定するのだが棘付きの新しい枝がどんどん伸びどうにもこうにもならなくて今年は収穫をあきらめ半分ぐらいの高さに伐り枝を透かしてもらった。黄色く色づいた柚子でも棘の傷はあったが鳥に突かれることはなかった。黄色に色付いた柚子は見るからに明るく心を豊かにしてくれる。

季節によせて Vol.614   令和5年10月21日 
棉の実の種の在り処を手探りに     晶 
 30年程前、中国の大同で綿打ちの作業を始めて見た。大きな弓のようなもので打ちながらほぐすのでこまかな綿が舞うのだがゆったりとした動きが目に焼き付いている。日本には8世紀末に一度棉が伝えられたそうだが定着せず戦国時代に中国、韓国から種子が導入されて以後急速に普及したと言われる。大きな種が一個かと思いきや、もこもこした棉の中に種がいくつも。宝探しのようで面白い。良い製品を作るためにも一粒残らず種を採りだす。

季節によせて Vol.613   令和5年10月14日 
コスモスのどこかつつましやかな揺れ     晶 
 コスモスはいつもどこかが揺れていて突っ立っているというイメージはないが、根元近くの茎は実に逞しい。いくつもに分かれたか細い茎を木質化した茎が支えているため、少しばかりの風では倒れることもない。メキシコ原産、コロンブスのアメリカ大陸発見後ヨーロッパに渡り品種改良されて明治時代に日本に渡来した。どこにでも適応して愛されるのだから弱そうに見えて案外芯の強い花なのだろう。和名は秋桜。今では日本の秋を彩る代表的な花の一つ。


季節によせて Vol.612   令和5年10月7日 
赤は燃え白は滾地ちて曼珠沙華     晶 
  今年の秋の彼岸は923日だった。その頃になると必ず咲いて彼岸が過ぎると線形の深緑色の葉を出し他の植物が咲き始める3月ごろ跡形もなく消える。現在は園芸種もできて庭に植えることもあるが、鱗茎にアルカロイドを含む有毒植物であることから元来は田畑の縁や堤防、路傍に植えられ群生した。赤い花なら曼珠沙華と歌われるぐらい群生するさまは見事だ。


季節によせて Vol.611   令和5年9月30日 
をちこちに新たなしぶき鴨来る     晶 
  加茂は冬の季語だが、鴨の渡りは89月に始まるのでその年一番に飛来したものを初鴨と呼んでいる。水鳥が渡ってくると、静かだった水面も水脈をひくものが舞い降り水辺が急に賑やかになる。初鴨といふべき数が水の上(富田正吉)、遥けさの初鴨の声聞きとむる(皆川盤水)、鴨渉明らかにまた明らかに(高野素十)、鴨渡る鍵も小さき旅カバン(中村草田男)などの句がある。

季節によせて Vol.610   令和5年9月23日 
とりどりに光まとひて小鳥来る     晶 
  俳句で小鳥と言えば、秋、日本に飛来する小鳥、また留鳥のカラ類など産地から平地に下りてくる小鳥のことを言う。尉鶲(じょうびたき)や連雀(れんじゃく)、花鶏(あとり)、鶸(ひわ)、鶫(つぐみ)などの小鳥は10月上旬から下旬にかけて日本に渡ってくる。春の鳥は声を、秋の鳥は姿の美しさを楽しませてくれる。

季節によせて Vol.609   令和5年9月16日 
海光のまぶしきかたへ帰燕かな     晶 
  春に南方から渡ってきた燕が子育てを終え、9月頃に南方へ帰っていくことを、帰燕(きえん)という。町中を飛んでいた燕が朝方、電線に何羽も並んでいるのを見ると帰る時期が近付いてきたのかと一抹の寂しさを覚える。川沿いに海に下り,河口で群れをつくって帰る日を待つのである。リーダーがいるとは思えないが一斉に南を差して飛んでいくときは残された気がしていささか寂しい。

季節によせて Vol.608   令和5年9月9日 
坂道の辻平らかに風の盆     晶 
  越中八尾(現富山県富山市)で91日から3日に行われる盆の行事が「風の盆」二百十日の風よけの風祭と盂蘭盆の納めの行事とが集合したもので「おわら節」を歌い踊り明かす。三味線、胡弓、笛太古の哀歓を帯びたお囃子にのって菅笠をかぶって辻々を流す踊は情緒に溢れ見る者に時間を忘れさせる。

季節によせて Vol.607   令和5年9月2日 
海よりもうねる篁初あらし     晶 
  初嵐(はつあらし)は秋の初めの強い風のことで、台風の先触れのように荒々しく吹く。秋の初嵐は秋の到来を思わせる風のこと、単に初嵐と言うと新年の季語、または椿の一品種。篁(たかむら)は竹の林、竹藪のこと。

青々と成長した竹がしなやかに波打つようにうねる姿は美しい。秋の到来を告げる初嵐は草木の衰退を促す風でもある。


季節によせて Vol.606   令和5年8月26日 
一齣の開きがちなる秋扇     晶 
 先日、幼馴染のMさんから扇が見つかったと電話があった。何のことだろうと思ったら10年ほど前に一緒に行った京都で買った扇のことで、これまでどこを探しても見つからなかったのに思わぬところから出てきたというのだ。

それはMさんがお揃いだよと買ってくれたものだったので私は毎年使って要も緩み、買い替え時と思っていた。買ってすぐ不明になっていた彼女の扇はもちろん新品同様、今年はこの買ってもらった扇使うわと電話の声が弾む。いや、買ってくれたのはMさん、あなただったんだよ。友達はありがたい。


季節によせて Vol.605   令和5年8月19日 
刃渡りを凌ぐ西瓜の差渡し     晶 
 西瓜好きの夫は西瓜の季節を待ちかねて西瓜農園に買いに行く。一玉4キロほどの大玉西瓜は縞もくっきり、手応えも十分である。家にはそんな西瓜を一刀両断にできるような包丁はないので、西瓜をくるくる回しながら冷蔵庫に収まる大きさに切り分ける。刃先が触れただけでピリッと音をたてる。ここで罅が走るのは熟れ過ぎなどと言いながら贅沢な瞬間を楽しんでいる。

季節によせて Vol.604   令和5年8月12日 
朝顔の星あるうちに緩みそめ     晶 
 姪の息子が、育てた朝顔で色水を作るという。萎んだ朝顔を摘もうとすると一日で摘んではかわいそうだと言ったらしい。チューリップのように閉じたり開いたりする花のように思っていたようだと笑っていたが、朝顔も都会では見る機会が少なくなった。朝顔の蔓を這わせた棚は朝日のあたる窓の日よけになり、南向きの縁側には葭簀を立て掛け、西日の厳しい窓には簾が吊るしてあった。昭和の家のどこでも見られた光景が懐かしい。

季節によせて Vol.603   令和5年8月5日 
青鷺の肩をすぼめて羽たたむ     晶 
 青鷺は日本に生息する鷺の中では最も大型の鳥。首をS字に曲げるところなどは体形が鶴に似ると言われるが、鶴のようなディスプレーはせず、こちらは河岸、湖沼などの浅瀬や湿地にじっと立っている姿が印象的な鳥。水面をじっと見つめて魚や蛙などの獲物が近くに来るのを待って捕食するようだ。なんと忍耐強い鳥と感服する。


季節によせて Vol.602   令和5年7月29日 
喉元を撫でて鵜縄を締めなほす     晶 
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな(芭蕉)

鵜飼はこの句に尽きると言ってもいいように思います。初めは鵜の働きぶりを面白いと見ていても次第に哀れをおぼえてくる。料亭では鵜飼で捕れた証として鵜の嘴傷がある鮎が喜ばれると聞く。鵜が懸命に泳いで捕まえた鮎を人間が頂くわけだ。8世紀に書かれた万葉集や日本書紀にも鵜飼の記述があるぐらい鵜飼の歴史は古い。


季節によせて Vol.601   令和5年7月22日 
水中花揺らせば水のぎこちなく     晶 
 水を満たした容器に化学繊維の造花を入れて咲かせて鑑賞する遊具。意外に思われるが、江戸初期にはすでに似たようなものがあったようで、近代になって輸出されるようになって世界に広まったという。子供の頃の記憶では、初めこそ珍しかったが原色の花が褪せたり水を入れた容器が曇るうちに次第に忘れられ、いつの間にか部屋の隅で埃をかぶっていたように思う。やはり滅びないものはない。


季節によせて Vol.600   令和5年7月15日 
掬ひたる水饅頭にあはき影     晶 
 大垣の駅前だったか、美味しい水饅頭を売っていた。盃のような器から水饅頭を取り出してくれるのだが、水に包まれているような感触で実にのど越しが良くつるんとした感触が今も忘れられない。きれいな水が豊富に湧き出る街だからこその夏の菓子だろう。晒餡が淡く透けてみえるのも美しい。最近は、淡いピンクや緑の餡もあるようだが、私は昔ながらの餡が好み。


季節によせて Vol.599   令和5年7月8日 
ころあひを計りて膳に露を打つ     晶 
 「膳に露打つ」というのが季語。涼しさを演出するために、懐石料理の椀の蓋や膳に茶筅で水滴をふりかけ(露打ちという)て持ち出す。もともと茶事から発達した懐石料理なので露打ちも季節を演出する心配りと言えよう。茶筅にたっぷり水を含ませ、軽く水を切ったのち膳や蓋に露を打つとよいと習った。運び出すタイミングを見計らっての水屋仕事である。

季節によせて Vol.598   令和5年7月1日 
目も鼻も顔もまん丸麦藁帽     晶 
 この句を本部句会に出した時、狩行先生にこの句の作者は御立ち下さいと言われて立ち上がったのを昨日の事のように覚えている。まん丸顔の作者を期待なさってのことだったのだろうか。最近は子どもが麦藁帽を被って外出遊ぶ姿はあまり見かけなくなったが、やはり直射日光を遮るあの鍔の広さは私などは有難く、草むしりをするときなど重宝している。

季節によせて Vol.597   令和5年6月24日 
草押せば清水溢るる杖の先     晶 
 地中から湧き出る清らかに澄んだ水を清水という。崖や道端に湧き出て生活用水となっていることも。山歩きをしている時などに出会うとハンカチを浸して汗をぬぐったりひと息つける場所だ。昔はアルマイトの少し凹んだコップが提げられていたようだが、いつからか見なくなった。

季節によせて Vol.596   令和5年6月17日 
五月雨や揺れ小止みなき舫ひ舟     晶 
 五月と書くが5月のことではなく、梅雨の長雨のことを五月雨(さみだれ)という。旧暦五月(新暦6月)頃に降り田植時にはなくてはならない雨。「梅雨」が雨季と雨の両方をさす場合があるのに対し、五月雨は雨のみをさす。

 傍題に「さつき雨」「さみだる」「五月雨雲(さみだれぐも)」「五月雨をあつめて早し最上川」松尾芭蕉の有名な句。


季節によせて Vol.595   令和5年6月10日 
蕾めく枝の雫や走り梅雨     晶 
 走り梅雨とは、本格的な梅雨に入る前の頃に降り続く雨のことで、いったん晴間が覗くこともあるが、今年は台風の2号の接近もあって例年になく早い梅雨入だった。「走り」には物事の初めとなったものとか、先駆けと言ういう意味があり、魚や野菜などの初物を走りものということもある。農作業などには恵の雨の季節だが、近年の降り方は少し恐怖を覚える時もある。

季節によせて Vol.594   令和5年6月3日 
封切つて袋ふくらむ新茶かな     晶 
 新茶の季節、最近は真空パックで香りを逃がさない工夫もなされている。

開封と同時にぎゅっと押し込められていた茶葉が空気に触れて香りを取り戻す。お茶好きの私にはたまらない瞬間。歴史の授業で湯茶や物見遊山が好きな女は~という慶安の御触書を習った時、江戸時代に生まれなくてよかった!と心底思った。母方の伯父も祖母もお茶が大好きだったが、祖母は何がきっかけだったのかある時から一切大好きなお茶を断ったと母に聞いた。明治の女性は意志が強い。


季節によせて Vol.593   令和5年5月27日 
まだ旗を上げざるポール青嵐     晶 
  「青嵐(あおあらし)」とは青葉のころに吹き渡るやや強い南風のこと。(せいらん)とも読むが「晴嵐」と紛らわしいので(あおあらし)という読み方に定着しているようだ。拙句はまだ旗があがらない校庭のポールを見て、旗があがればさぞかしはためくだろうという思いの句。俳句を始めたころは何でも句になると楽しかった頃。ちょっぴり懐かしい。

季節によせて Vol.592   令和5年5月20日 
裏打の糊よく乾く麦の秋     晶 
  ものが今ほど潤沢になく、大切に取り扱われていた頃、使い込んだ辞書などは紙や布などを裏面に貼って角などが傷まないよう裏打していた。そのための用紙になりそうな綺麗な和紙はそれ用の箱に避けておき、どれを使おうかと組み合わせるのも楽しみだったようだ。ある時、大先輩に漢和辞典をお借りした。中学時代のものだよと言われたその辞書は表紙どころか頁のどこも折れておらず、実に丁寧に使われていて恐れ入ったのを覚えている。以来、歳時記を開くときは頁の角を折らないように気を付けている。

季節によせて Vol.591   令和5年5月13日 
谷間に物焚く煙竹の秋     晶 
 竹は3月から4月に筍を育てるために一時的に葉が黄ばんでくる時期がある。この状態が秋に落葉する状態に似ているとして「竹の秋」と呼ばれる。

新緑が美しい時期に竹林が黄色くなり竹の葉がひらひら散る景色も捨てがたい。ちなみに竹の子が成長して若竹となり竹林が青々とそよぐ秋には「竹の春」という季語が。竹林には「春筍」「竹の子」「竹の秋」「竹落葉」「竹の皮脱ぐ」「若竹・今年竹」「竹の春」など一年を通して季語がある。


季節によせて Vol.590   令和5年5月6日 
棚越しの日差しに伸びて藤の花     晶 
 樹齢を重ねた藤が棚中に広く枝を巡らせて長い房を垂らしているさまはまことに美しい。藤の房を揺らす風までうすむらさきの色をしている錯覚を覚える。道路を隔てたところに幼稚園があり通園バスが藤棚のある通用門で園児の送迎をしていたが、いつしか送迎は正門の方に移った。藤の花はどうやら蜂に人気があったようで大きな翅音を立てて飛び回り園児や若い女の先生たちを怖がらせたのが原因だったようだ。

季節によせて Vol.589   令和5年4月29日 
山ざくら隣といふも谷へだて     晶 
 桜の代表格と言われるのが吉野桜なら、古来詩歌に多く詠まれてきたのが山桜。「しきしまのやまと心を人問はば朝日に匂ふ山桜花  本居宣長」という著名な歌がある。本来、山桜は独立した一品種であるようだが、詩歌で読まれる山桜は特定の品種ではなくその土地の山に咲く桜を詠むことが多いようだ。花の時期以外は他の山の木に混じってひっそり枝葉を養っているのも心惹かれる。

季節によせて Vol.588   令和5年4月22日 
鳴き止んで口をへの字に雀の子     晶 
  ほぼ親と同じ大きさなのに正真正銘、嘴の黄色い子雀、親の帰りを待って大きな声でチュンチュン鳴いている。二階の窓からお隣の屋根が見え、この時期になる雀の子育てが手に取るように見える。つるつるする塩ビの雨樋に脚を取られそうになりながら飛び跳ねるやんちゃな子や臆病で出遅れて餌をなかなかもらえない子など。天敵の鴉に摑まらないようにと窓から子雀が育つのを眺めている。

季節によせて Vol.587   令和5年4月15日 
はるかなる雲の輝き鳥帰る     晶 
  日本で越冬した冬鳥が春、北方の繁殖地に帰ること。大型の白鳥や鶴は整然と隊列を組んで帰るので、「白鳥帰る」「引鶴」など季語になっている。小型の鳥は猛禽類に襲われないように大群になって一気に帰る。引く形や時期は様々だが、長旅と繁殖期に供え十分体力をつけての北帰行だ。何羽かは途中で命を落とす過酷な渡り、繁殖地へできるだけ多くの鳥が辿り着けることを祈る。

季節によせて Vol.586   令和5年4月8日 
ひとまはりしたき地球や青き踏む     晶 
  ロシアのウクライナ侵攻で世界が一変した。これまでも紛争や災害はあったがここまで地球規模で影響を受けることになろうとは想像できなかった。地球を歩くという本を手にバックパッカーたちが自由に旅行をしていた頃が懐かしい。「踏青(とうせい)」は、もとは中国の風習で、唐代以後に盛んになり一般には郊外に墓参した後、桃や李の咲く中で酒宴を催し春の山野を楽しんだというもの。訓読みにして「青き踏む」ともいう。

季節によせて Vol.585   令和5年4月1日 
声あげておのれ励まし鴨帰る     晶 
秋の終りに日本に渡ってきた冬鳥の雁や鴨は3月頃から5月にかけて北方へ帰っていく。こういう鴨をを「引鴨(ひきがも)」という。いっせいにいなくなるのではなく、群れごとに帰るようで、池で見慣れた鴨もだんだん減ってくる。

ヒドリガモの場合、甲高い声で鳴いているのが雄、ガーガーと濁った声で鳴くのは雌と聞いた。雌は地味な色に加えて鳴き声も悪いようだ。



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